これは実話であり、公式記録、専門家の分析、関係者の証言を元に構成しています。
1989年7月19日発生 事故の直接的な原因は第2エンジンのファン・ディスクの製造時における欠陥で、金属疲労によってディスクが粉砕されてしまったのと、油圧系統が第2エンジンのすぐ近くに集中していたことだった。その結果、エンジンの破損と同時に3系統あった油圧系統が全部破壊されてしまい、4年前に発生した日本航空123便墜落事故illust/91919275と同様に舵面での操縦が不可能な状態に陥ってしまった。しかし、JALの件とは異なり垂直尾翼が無事だったことと、DC-10型機の機体形状が有利に働いたこともあり、完全なコントロール不能の状態には至らなかった。コックピットのパイロット3人はジョークを交わしながらエンジン出力制御による操縦を実行し、さらに客室に乗客として搭乗していたDC-10型機の訓練教官が支援に駆け付けたこともあり彼の助けも受けて最寄りのスー・ゲートウェイ空港に向かった。なお、この訓練教官は以前にJAL123便の件を受けて「もしもDC-10で同様の事態が起きたら」という事を想定して自主訓練を行っていた。必死の奮闘の末にスー・ゲートウェイ空港の滑走路に進入。しかし、直前で横風に煽られて体勢が崩れた結果、着陸に失敗。横転大破炎上しながら地面に接地した。これによって乗員乗客296人中112人が死亡(内1人は救助後31日後に後遺症で亡くなった)したものの、決死の救助活動によって残りの184人(この中にはパイロット3人と訓練教官も含まれている)は生還している。犠牲者の冥福を祈るとともに、先の大惨事の教訓が多くの人命を救った好例ともいえる。また、この事故もクルー・リソース・マネジメントの成功例といえ、多くの人命を救ったパイロット3人と訓練教官は後年に航空業界最高の栄誉であるポラリス賞を授与されている。
2022-07-18 15:00:02 +0000