(illust/28049265 の続き)「そ…そんな…!」俺は両手に握り締めていた特大の伊勢海老を、ぼたりと床に取り落とした。背筋が凍えるみてえだ。全身からみるみる力が抜けていくのがわかる。「ごめんなさい大山さん。でも僕はもう、新しい土地へ赴かねばならないんです」瞬先生は、俺が落としたビチビチ跳ねる活きのいい伊勢海老を、大切な宝物を扱うように籠に戻した。「ど…どこに行くんです瞬先生!この村の近くですか!」「いえ…遠い異国の村です。海の恵みも山の恵みもない土地で、子供やお年寄りが、病苦に苛まれているんです」俺を見上げて寂しげに微笑む、硝子細工みてえな瞬先生の細くて長い睫。繊細で綺麗な…俺の…瞬先生。鮫に襲われていた俺を助けてくれた、優しい瞬先生。俺の命の恩人で…命よりも大切な人。「そ…そんなのいやだ…ッ!」俺はガキみてえに駄々をこねて、両拳をぶるぶる奮わせた。鼻が痛え。涙が昆布みてえにだらだら溢れて止まらない。「大山さん、妹さんの病は快方に向かっています。この村でもう、僕が力になれることはありません」瞬先生の真っ白くて細い指が、俺の傷だらけで不恰好な赤い手に優しく触れる。「瞬先生と別れるなんて…ッ…俺は…俺は絶対に…嫌だあああぁぁ…!!」「大山さん…!」俺は涙と鼻水を振り乱しながら、その場を駆け出した。わかってる。瞬先生は貴いお医者さまで、待ってる奴は他所に大勢いるんだ。いつまでもこの村に引き止めていい人じゃない。そして俺が…こんな煮崩れた熊みてえなツラの俺が…想いを寄せていいような人じゃないってこと…。俺は山に篭って夜まで泣いた。山犬がびびって二度見するほど…大声で泣いた。星よ山よ虫たちよ。笑うがいいさ。俺はかなわぬ恋もいつか実るんじゃないかって…そんな奇跡を1ミリでも期待しちまった、愚かな道化だ。「兄ちゃん、兄ちゃん起きてよ…ッ!」「う~ん…瞬てんてぇ~…」目を開くと何故か洟を垂らした妹の顔があった。朝露が緑に映えて目に眩しい。どうやらいつの間にか寝ちまったみたいだ。もうすっかり夜があけている。「涎たらして瞬てんて~じゃないよ兄ちゃん!瞬先生を乗せた船がもうじき出ちゃう…!もう会えないのに、サヨナラも言わない気なの?」俺はのっそりと草の上に身を起こすと、重く両肩を落とした。「瞬先生とお別れなんて…兄ちゃんには無理だ…だったらいっそサヨナラなんか言わずに…」「兄ちゃんのバカーッ!!」次の瞬間、妹の強烈なアッパーカットを顎にまともに食らった俺の巨体は、空高くきりきりと舞い上がっていた。逆さに見仰ぐ朝日が眩い。俺はズシャアッと顔面から音を立てて地面に叩きつけられた。額を割って血がどくどくと流れ出す。「う…うう…」「兄ちゃんが瞬先生におネツだったのなんて、あたい知ってたよ!あたいだって…瞬先生みたいに綺麗で優しい天女さまみたいな人が兄ちゃんのお嫁さんだったら、どんなにいいかって…!」ぐしぐしと片手で赤い鼻をこすりながら、妹が俺の胸倉を掴み上げる。「兄ちゃんの恋は、最初から実りっこなかった。だからって別れ際まで、ダセェ男のままでいる気なのかよーッ!」わああと号泣しながら俺の腹に抱きついてくる妹のおさげ頭を撫で、俺は昨夜枯れ果てたと思っていた涙をまたぼたぼたと流した。妹が来なかったら俺は、最低な男になっちまうとこだった。「…お前の言う通りだ。男ってのは、散り際だけは、ダセェとこを見せちゃいけねえ」そうだ。俺は大急ぎで周囲をぐるりと見回し、純白の野生の百合を一輪手折った。その気高く可憐な佇まいが、まるで瞬先生のようだったから。俺は百合の花を妹に手渡し、その小さな身体を両肩に乗せた。「全速力で飛ばすぜ!兄ちゃんにしっかりつかまってろよ!!」「うんっ!!」俺は妹を肩車して、山道を駆けた。ひたすら駆けた。どうか間に合ってくれ。どっかにいる神さま!瞬先生の信じる神さまでいい、どうか俺をダセェ男にしないでくれ!獣道を突っ切ると、視界に真っ青な海が拓けた。雲ひとつない晴天だ。「兄ちゃん、あそこ!」一艘のボロ船はもう、港を離れている。俺は妹を肩から降ろし、百合の花を引ったくるようにして海へ駆けた。「兄ちゃん、飛んでけーッ!!」妹の絶叫を背に受け、俺は海面めがけて跳んだ。飛沫をあげてひとまたぎで跳んだ。百合を口に銜えたまま、ぐいぐいと両腕で波をかきわけ、瞬先生を乗せた船を一直線に目指す。船尾に、白衣をはためかせた瞬先生の姿があった。「瞬先生ーーッ!!」「大山さん…やっぱり来てくれたんですね…!」俺に向かって、船から転げ落ちそうなほど身を乗り出す、瞬先生の輝くばかりの笑顔。ああ、太陽より月より眩しいぜ!「瞬先生…ッ…俺、ばかで、不器用で…何もしてやれなかったけど、瞬先生が…好きでした!!どうかお元気で…どこに行ってもお幸せに!」銜えていた百合の花を必死に腕を伸ばして差し出すと、瞬先生は微笑みを湛えたまま、両手でしっかりと握りとめてくれた。「ありがとう大山さん。この村の皆さんによくしていただいたこと、大山さんが獲ってくださったお魚が美味しかったこと、妹さんの可愛い笑顔、僕は一生忘れません。大山さんこそ、いつまでもお元気で!」「瞬先生…!」百合の花を胸元で握り締めた瞬先生の可憐な姿が、涙でみるみる霞んでいく。綺麗な瞬先生の姿をいつまでも目に焼き付けていたいけれど、俺はその場で前進を止めた。海水を蹴りながら、懸命に手を振る。「さようなら…瞬先生…!!」そしてあばよ…俺の初恋。俺の亜麻色の青春よ。俺はあとからあとから溢れ出るわかめのような涙を朝日に照らされるに任せたまま、小さくなっていく船影をいつまでも見送り続けた。願わくば。あの美しい人の未来が、今日の太陽のように輝かしいものでありますように。(完)
2012-06-19 12:47:41 +0000