おやじギャグ

あだちレイ(小説、マンガ)

ダジャレを言うと、それは
おやじギャグだとか、つまらないと
いわれるようになってしまった。
 おやじギャグと似た表現で
 オバタリアンといった表現があるが、
 これも一種、敬意がなく、差別的表現である。

 ダジャレというのは、文脈を持たない。
 隣の家にへいができた。へい、良かったね。

 というダジャレ的文脈があるが、本来なら、
 なぜ、へいをたてたんだろう、とか
 へいをたてるといっても、金がかかるだろうに
 といった、ごく平凡な疑問が、正当な文脈である。

 つまり、若い世代は、もっと親と
 話をしたかった。話たかったが、
 ダジャレを通してごまかされたというのが
 ほんとうのところである。
  親が子と向き合わなかったツケが
  ダジャレであり、今の芸人、
  つまり40才くらいの芸人はみな、
  テレビを見て、孤独の中で育ってきている。
  だから、全体的な笑いの質が均一で
  つまらないのである。
   つまり、もっと話がしたかった。
   普通に話たかったというのが、
   ほんとうのところで、これは
   日本人のコミュニケーションの問題になりそうだ。
   おやじギャグを”おやじ”と表現した時点で、
   日本のコミュニケーションは、新時代を向かえたのである。

ドラゴンズ
死ぬ気でやれ!
という気持ちが伝わっただろうか。
 7連敗といういやなムードだったが、
 この1勝で、今後の交流戦に期待がつながった。
  交流戦の成績次第では
  交流戦後の順位にも影響する。
  7月になると、もう8月9月が見えてきてしまう。
  だいじなのは今だ。
  高橋にタイムリーが出たの大きい。
  阿部マスターの技ありタイムリーも大きい。

ガンダムと、ウルトラマンが映画化され、
未来が消滅した、と感じた。たしか来年は
仮面ライダーの映画化もあるはずだ。
 未来がない、ということは
 現在と過去しか存在しないのだが、
 これは、プロレスを考えるとわかりやすい。
  プロレスの場合、語られるのは昭和のプロレスで、
  あのとき実はこうだったとか、裏でこういった
  事象がおこっていたなどといった語り口で
  語られるのが非常に多い。
  ここに新しさはあるのだが、過去に対する
  新しい解釈といった新しさであり、未来的は
  新しさがあるわけではないだろう。
   野球の場合はどうだろうか。
   たとえば、岡林が活躍しているが、
   まさに未来といったところではなかろうか。
   あるいは、鵜飼がホームランを打ったとか
   そういったフレッシュなニュースが伝わってくる。
    ただ同時に、立浪監督であり、二軍が、片岡篤史、
    PL全盛期の人たちであり、清原も練習を見学すると、
    やはり、岡林が活躍すると同時に、そういった
    過去のレジェンドに視線はそそがれているように思う。
     さて、過去しか存在しないとすると、
     新しい解釈が出てきたとき、新しさがそこにあることになる。
     たとえば、人間の祖先は猿でなかったとか、
     そういった点が、今後の新しさになってしまうだろう。

”未来のない世界”
未来とは、常識的なものであり、
明日とか、一年後の自分を思い描くなど
やはり、日常的な表現だった。
 しかし、未来が存在しないなら、
 存在は、現在か過去である。
  そして感じるのは、過去の事象に
  新しい意味を与えるのが多い点である。
   たとえば、歴史はマルクス的に書かれてきたが、
   最近の流行は、地政学的な説明であり、
   マルクス論だけでは説明できなくなってきている。
    たとえば、宗教戦争といったくくりがあるが、
    宗教的な対立がない場合も、たたかっている場合がある。
     つまり、新しさとは、過去の新しい解釈であり、
     それによって現在の立ち位置が変わるといった、
     新しさしか、もはやわれわれは持ち合わせてないだろうか。
      昔の事象の裏話を見るのはうんざりだと思っても、
      つぎの日また、過去の事象に関心が向くなら、
      やはり、未来は消失し、過去だけが存在する。
      そしてそれに新しい意味が与えられる場合が多いと
      いえそうである。

ある人がわたしに数学を教えるという
悪夢でめがさめる。
 猪木さんが言っていたが、
 役者の世界では、むかしは
 ある人の前へ出てはいけないとか
 そういった厳しい世界だったそうだ。
 木村健悟は、猪木より目立つことはけしてなかった。
  そういった風習が、
  どうもわたしにブレーキをかけているようだ。
  実力のないような人物に肩入れするクセは
  よくない。
   自分の仕事はキャリアをつんできたつもりだし、
   これからもそうである。
   夢は無意識と関係すると聞く。
   わたしの育った環境で、そういったブレーキを
   つくる人々が多かったのだろう。

”未来がない”
プロレスを見ると、最近はもっぱら、
過去の試合というか、その裏側で何が起こっていたか
みたいなところが人気で、たとえば
オカダ・カズチカの試合を見ようとか、
そういったのでなく、やはり過去が人気なのだ。
 1970年、男のロマンといった動画があり、
 いくつか見てみたが、視点はわたしとほぼ同じで、
 秀逸な動画、といいたいが、やはり
 資料に限界があるので、結論も似通ってしまう。
 ただ、顔を出した動画なので、陰鬱な印象はない。
  未来がないなら、女は男を受け入れないし、
  子育ても拒否するだろう。アダルトサイトのような
  映像が発達しているのは、こういった集団心理が
  働くからではなかろうか。
   わたしは未来はないと書いたが、未来はあるよという
   反論もあるだろう。たとえば、若い人が
   わたしは明るい未来を持っているのだといえば、
   それは青年の主張である。
    こういった仕事をやってみたいという
    明快な若者がいるだろうか。
    公務員になって安定を求めたいという人がいるとしよう。
    彼の未来は、安定した生活の連続であり、
    それは社会という背景が存在して
    はじめて成立する安定ではなかろうか。
     社会や政府は、管理社会へ向かっているようだ。
     パソコンが普及したのが、1995年として、
     それから30年くらいしかたっていない。
     しかし、人を管理しようと思えば、
     顔認証など、技術的には追いついているといえるし、
     皮肉にも共産とこの技術がむすびついているように思う。
     鄧小平は、深センを実験的に開放し、
     先端技術の外資を受け入れた歴史がある。
      わたしは、この技術の発達をダメだと言っているのではない。
      ウルトラマンの会見で、技術的発達が新しさなのだが、
      やはり原作へ戻ったのだというコメントがあった。
      スパイダーマンもそうだが、ぴょんぴょん飛び回るだけがスパイダー

#father

2022-05-26 06:47:44 +0000