「あたし、キミに出会わなければよかった」
脚に包帯を巻いたアイネスフウジンにそう告げられる。
「俺は…君のために…」
瞬きを忘れ、涙が溢れてきた目が次に捉えたものは彼女の『逃がさない』という意志が溢れる鋭いまなざしだった。
ピピピピピピピッ
アラームの音が聴こえる。
枕元にあったスマホを手に取り、アラームを解除する。
嫌な夢を見た。3年前、まだ誰もスカウト出来ていない時期に目の当たりにした光景。
夢に向かって無茶なトレーニングをして骨折したウマ娘と、夢を叶えるため無茶なトレーニングを提示したトレーナーの言い争い。
アイネスフウジンと大切な3年間を駆け抜けた今でもフラッシュバックするあの場面は、心に相当深く刻み込まれているのだろう。
もし、今日学園であった時に夢のようなことを言われたら…
そんな不安な気持ちを抱えつつ、掛け布団を丁寧に揃えて出勤準備を始めた。
「はろはろ~!トレーナー!今日もよろしくなの!」
朝練にやってきたジャージ姿の彼女は、いつもの笑顔、いつもの快活な挨拶をしてくる。
「ん?トレーナー。なんか調子悪い感じ?」
彼女はこういう細かいところにすぐ気が付く。言い訳して更に心配させるくらいなら素直に言った方がよさそうだ。
「朝、ちょっと寝起きが悪くてね」
「無理しちゃダメ。今日はあたしになんでも言ってほしいの!」
人差し指を振りながらこちらを諭すように言う彼女の姿を見て、少し安心してしまう。気が付けば自然と笑みがこぼれていた。
「ありがとう。…そうだな。今日は頼らせてもらおうかな」
彼女の優しさに触れ、過去のトラウマを拭い去るように甘えてしまう。
「……えっ」
そんな彼女を見てみると、目を見開き口が半開きになっている。
こちらが見ていることに気が付くと、目線を泳がせながら人差し指で頬を掻き始める。
「も、もう。急に頼られると照れちゃうの…それより!早くトレーニング始めるの!」
そう言って彼女は駆けていってしまった。
どうして目線が泳いでいたのか分からないが、とにかく朝練に集中しよう。あの夢のことを思い出さないように。
「……頼られて嬉しかったのに、なんなの?この『気持ち』は……」
夕方の練習を早く終えバイトに行く彼女を見送る。明日は休みにして明後日のレースに備えてもらうことにした。
翌日、スケジュールなど纏めていたら昼時を過ぎていたのでラーメンを食べに行くことにした。
「なぁ、フーと最近、喧嘩でもしたかい?」
ラーメン屋の店主に丼を渡された時、そんなことを聞かれた。
「えっ?いや、してないですけど?」
自分が彼女と喧嘩した覚えはない。
「フーのやつ『アタシ、トレーナーのことどう思ってるんだろ』って言ってたんだ」
ドキリとしてしまう。またあの夢のことを思い出してしまう。
次にコンビニに行くと
「ねぇねぇトレーナーさん。アイネスとなんかあった感じ~?喧嘩でもした?」
「えっ?喧嘩ですか?いえ…そんなことはないはずなんですけど」
バイトギャルは商品をレジ袋に入れながら言う。
「昨日、一緒にバイトしてた時アイネスに言われたんだよね~『人に頼られた時どんな気持ちになる?』って~」
「彼女はなんて?」
「なんか『嬉しい気持ちの他になにかある』って言っててそれで、喧嘩でもしたんかな~って」
彼女は何かに悩んでいるようだが、大事なレース前に心を乱してもいけないと思いその日は
『明日がんばろう』
とだけLANEを送った。
レース当日
「お姉ちゃんがんばってー!」
「がんばれー!」
「はーい!楽しんでくるの!」
そう言って彼女はコースへと向かう。
「ねぇ、トレーナーのお兄ちゃんはお姉ちゃんと喧嘩でもしたの?」
またこの質問だ。
「いや、してないよ。どうしてそう思ったの?」
「なんかね、お姉ちゃん。昨日『モヤモヤする』って言ってたの」
もう一人の妹も会話に加わる。
「お姉ちゃんが昨日、何か考え事してたからどうしたのって聞いたんです。そしたら『トレーナーのこと考えるとモヤモヤする』って」
モヤモヤというワードなのだから少なからずポジティブなイメージではなさそうではある。
「それでね『トレーナーのお兄ちゃんのことキライになったの?』って聞いたら違うって。『大好きだよ』って言ってた」
「だけどモヤモヤするって言ってたの」
少なくとも彼女から嫌われている訳ではないということが分かり、ホッとする。
「ねぇねぇ、お兄ちゃんはお姉ちゃんのことキライ?」
「ううん、キライじゃないよ。嫌われたくないって思ってる」
「きらわれたくない?」
「…お兄ちゃんが君たちのお姉ちゃんに会う前のお話してもいい?楽しいというより少しレースの厳しいお話になるんだけど」
「…うん。聞きたい」
レース教室に通うようになった彼女たちにとっても大事な話だと思い、自分の気持ちの整理をするため、過去のトラウマ話を呟いていく。
「なーんだ!ケンカしてなかったんだね!」
「お姉ちゃんがお兄ちゃんのことキライになるわけないもん!」
カラッとした笑い声を聞き、こちらもつられて笑う。ありのまま吐き出すことが出来たから気持ちが楽になった。
その時ファンファーレが鳴り響く。
レースが始まり歓声に包まれた。
「今日は妹たちを見てくれてありがとうなの」
レースに勝利した彼女と彼女の実家に妹たちを送った後、陽はすっかり落ちていた。
「でも、スーちゃんやルーちゃんに『ケガの話』をするのは少し早いと思うの」
あのことも妹たちは話していたのかと驚く。だが、目を背けずに話すと決めたことなので、彼女からこの話を切り出してくれたのはありがたい。
レースの終わったこのタイミングなら、彼女のモヤモヤした気持ちを聞き出せるだろう。
「ねぇトレーナー」
少し前を歩く彼女は背中越しにこちらに声を掛けてくる。
「あたし、もう『辞めたい』って言ったらどうする?」
帽子を被っているため、外灯に照らされた彼女の表情は影になり読み取れない。
なんでそんなことを言うのだろうか。
さっきまであんなに楽しそうに走っていたのに。もう過去のトラウマに振り回されることはないと思っていたのに。
彼女のその一言が深く深く胸の奥へと突き刺さる。
「俺は…君のために…」
自分は上手く言葉を吐き出せない。答えが纏まらず、永久に続くのではないかと思った静寂を
「……ぁは」
彼女の短い笑い声が破る。
「ごめんごめん!嘘なの!あたしが走りをやめるわけないの!」
彼女のいつもの声。途中で何か喋っていた気がするが耳に入ってこなかった。
「そんな落ち込んだ顔しないの。あたしがキミから離れるわけがないの!」
彼女が少し顔を上げる。
相変わらず外灯に照らされ影を作るため表情は見にくいが、それでも彼女の瞳が見える。
「これからもずっと『二人三脚』で歩んでいこうね。トレーナー」
瞬きを忘れ、涙が溢れてきた目が次に捉えたものは
アイネスフウジンの『逃がさない』という意志と『歓喜』溢れる鋭いまなざしだった。
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全文(6206字)は小説で
novel/17624400
2022-05-20 11:01:09 +0000