……それは闘技場やローマの街ですら見たことのない大群だった。雲霞の如く視界一杯地を埋め尽くす大軍が我々を一片の躊躇いなく血祭りに上げて冥府に突き落とそうと迫っていた。挑発と怒声混じりの鬨の声が嵐に唸る波濤の様に響き渡り、鈍く輝く武器や色とりどりの盾を叩く音が連中の奇妙な形のラッパの音色と共に風に乗って不気味に広がっていた。
彼らが何に憤怒し、憎悪していたのか、強欲で間抜けな同胞やお偉方が彼らの逆鱗にふれた真相については様々に語られていたが、その怒りが紛れもなく本物で、我々が敗北した場合、どのような運命を辿るかは想像するまでもないことだった。カムロドゥヌムに籠城して敗れた連中がどういう風に嬲られて殺されたか、その骸がどうなったか、身の毛もよだつ噂がヘルメスより速くブリタンニア全土を駆け巡っていた。負ければ捕虜になる事すら出来ず、死を懇願する様な拷問にかけられるという確信があった。
よく訓練された第XIIII軍団は静かに将軍の命令を待っていた。第Ⅸ軍団が既に敗北したという噂を聞き、誰もがじっとりと冷たい汗をかいて正面の敵から目を離すことが出来なかった。勝てる筈だ、いや敵は何倍かすらわからない、負けるかもしれない、不安と恐怖と緊張が全隊に伝播していたことは否定できない。不吉な、嫌な雰囲気だった。全兵士はスエトニウス・パウリヌスが“約束”してくれることを期待していた。我々は勝てる、勝利と栄光と、捕虜と戦利品を手にして明日も変わらず不滅の太陽を拝み、ブリタンニアを支配していると。
幕僚と馬で駆けてきた将軍は戦列の前で下馬し、恐怖で震え上がっている新兵を目聡く見つけ出してその胸甲を親しげに軽く小突いた。それから父が子を励ますように肩に手を置いて、丁寧に力強く声をかけた。
「今日は最高の戦争日和とは思わんか? 軍団兵、故郷は?」
新兵は緊張した面持ちで答えた。
「ハッ!!アクアエ・マティアカエから歩いて2日の小村であります!!」
将軍は少しだけ視線を宙に彷徨わせ、微笑んだ。
「……すまんな、知らん。が、お前の様な兵士を生む土地だ。良い場所に違いない。そうだな……故郷に帰る日のことを考えろ。いつか退役して十分な金と共に故郷に帰る。誰もがお前を尊敬し、子や孫がこう尋ねる。どんな戦に参加したの? お前はブリタンニアで最大の戦いに勝利したと答え、皆が讃嘆する、真の勇者の家族であることが誇らしいと。その為に今日すべきことはわかるな? もしわからなければ隣の百人隊長が“素敵な杖”で親切に教えてくれる」
それから家族はどうだとか、期待しているとか、先祖が見ているとか……そして最後に相手の目を覗き込んで頷いた。戦いに怯む兵士を鼓舞する使い古されたやり方だ、だがそれで十分だった。一生に一度声をかけてもらえるかすら定かではない将軍がわざわざ立ち止まり、激励したのだ。その言葉は声をかけられた兵士だけのものではなかった。周りで聞いていた者すべてがこう思ったのだ。将軍の期待を裏切ることは出来ない、父祖の恥じる様な戦いは許されないと。
将軍はそういうことを何人かにやって再び馬に跨り、戦列を巡りながら各歩兵隊に気合を入れていた。第XIIII軍団と第XX軍団の分遣隊、補助兵に何とか搔き集めた年寄りの予備役、1万人以上がいたのだから彼は何度も何度も兵士達に語り掛けていた。我が歩兵隊の前で彼は堂々たる声で喝を入れ始めた。
「諸君の前に騒がしい蛮族がいる。まぁ、そうだな“多少”数は多いが……全く恐れるに足らん。わかるか? あの哀れな連中は女の尻に敷かれて駆り出されてきたんだ。奴らが戦士に見えるか? とんでもない、その寝ぼけた目をこすってもう一度よく見ろ。貧弱な武装、秩序と規律の無い隊列、どうだ? 我々は彼らとは違う、昨日ケツを叩かれて納屋から慌てて先祖伝来の武具を引っ張り出してきた様な連中とは違う。農夫だとか、木こりだとか、物売りだとか、そういう連中とは違う。ここにいる全員の職業は“戦士”だ。盾と剣の使い方、“商売道具”の扱いに誰よりも詳しい。私が、いや……私と敵より恐ろしい百人隊長共が今日まで諸君に仕込んだ訓練を思い出せ。今一度自分に何が出来るかを知恵を振り絞って考えてみろ。
この地上に我々以上の戦士がいるだろうか。誰よりも敵を“黙らせる”のが上手い。何も恐れることは無い、既に持っている力を発揮すればいい。何千回も練習した通り戦列を組み、ユピテルの雷撃や夕立の様に投槍を浴びせてやり、盾で鼻面をぶちのめし、剣を抜いて敵の腸をパン生地みたいにかき混ぜてやれば良いんだ。大した度胸はいらない、諸君がいつもしている様に街の酒場で気になる娘に声をかける方がよほど大胆さを要する。違うか!?
だが心しろ、決して隊列を崩すな、後ろを振り返ったり、命令もなく下がったりしてはならない。隊に綻びをもたらす者、孤立する者、突出する者は仲間を道連れにして死ぬ。団結しろ、活路は前にしかない、前に進んだらケチな略奪のために足を止めるなんて真似はするな。何故なら我らの前に立ち塞がる全ての敵が倒れた時、我々を妨げる者はこのブリタンニアからいなくなるからだ。その瞬間、未だかつてない勝利と目も眩む栄光と戦利品が諸君にもたらされる。ローマの戦士達よ!こんな好機を逃す手があるか? 明日はそれを山分けしながら祝杯を上げようではないか!」
歩兵隊の全兵士が彼の提案に同意し、力の限り槍を振り上げて地鳴りの様な鯨波で応えると将軍は満足そうに答礼し、外套を翻して次の戦列へ向かった。不安と恐怖は軍団の情け容赦ない残忍な戦意に取って代わり、それが盃から溢れそうな葡萄酒のように満ちて行くのが肌で感じられた。はっきりと目で見て感じ取れる変化だった、うら寂しい冬の森が瞬時に瑞々しい春の緑を取り戻し、黒い土から命の息吹が立ち上るように。スエトニウス・パウリヌスがやってくると周囲の“色”が変わった。怯えた小犬は狼に、羊は獰猛な獅子に変貌した。
将軍は魔術師の様に、あっという間に兵士達の吹き消えそうな闘志を燃え上がらせ、戸惑いを抱いていた連中に不敵な笑みすら零すほどの自信を蘇らせた。ローマ人の血に流れる衝動、勝利を求める貪欲さと立ちはだかる敵すべてを完膚なきまでに打ちのめすという匂い立つほどの殺意がマルス・ウルトル(復讐者マルス)の神殿に焚きしめた香の様に戦列に漂っていた。
英雄か危険な扇動者か、才能か研鑽の技か、生来の将軍か役者か、彼には兵士を焚き付ける紛うことなき“アルス(技)”があり、軍団に不敗のゲニウス(精神、魂、神性)を吹き込む本物の力があった。
――ワトリング街道の戦いとスエトニウス・パウリヌスについて 第XIIII軍団ゲミナ歩兵隊指揮官の回想
タキトゥス先生の「年代記」14巻29-39節を勝手に膨らませるという大罪。実力や物量を無視して最初から精神力に頼る戦いというのは拙いでしょうけど、十分な訓練と力を有している軍勢に指揮官が最後の一押しとして自信と誇りを吹き込むのは大切なのではないかと。どこまで実際のものに近いのかはわかりませんが、古代の記録に稀な彼我戦力差や練度、戦術、略奪にまで言及する生々しい言葉はローマ軍の将官の実像に幾らかは迫っているのではないかと思います。
2022-03-19 11:50:01 +0000