無題

あだちレイ(小説、マンガ)

高校生のころ、あの子は胸が大きいと
話題になったことがあった。
 しかし、わたしにとっては、そうかなぁ
 といった感じで、関心がなかったのである。
  自分だけよい格好をするわけではないが、
  回想すると、そういったエロティックな話題は
  避けるようにこころがけていた。

  遡ると、そういった話題にふれることで、
  自身がいじめられやしないかといった不安から
  来ていたように思う。たとえば、陰毛がはえてしまった
  少年が、いたくいじめられる後継を見て恐怖したのだろう。
   ずいぶん時間が経過して、ほんとにあの子は胸が大きかったのかと
   気になるコトがあるが、検証する手段はない。

最近、動画がつまらなくなった、オワコンだ、
なぞと書いてきたが、ネットフリックスの紹介動画はおもしろい。
 すこし前に、こういった動画をあげる人が逮捕されたが、
 映画少女など、この手動画はまだ継続しているようだ。
 最後のオチをいわなければいいとか、
 動画界も厳しくなっているかもしれない。

 それはそうと、バックトゥーザフューチャーをもう一度考えてみよう。
 これは、映画冒頭と、エンディングを比較すれば、
 うだつの上がらない主人公やその家族が、
 立派な家族となったというハッピー物語である。
  調度、フィットネスを継続して、
  自身の肉体が変化しただけでなく、人間関係も良好になった
  みたいな、思いかけず、環境の変化がおとずれた話に似ている。

  映画は、タイムマシというギミックを利用するが、
  過去へさかのぼり、現在へ帰ってくると
  現状が変化するというのは、トラウマの対処に似ているようである。

  上の例でいえば、陰毛のはえた少年がいじめられる後継が
  強烈にトラウマとして残っているとしよう。
   しかし、青年になれば、むしろ陰毛のない青年の方が
   めずらしいだろうから、この問題は
   時間が解決してくれるだろう。
   つまり、いじめた側の少年も、いずれ陰毛がはえてくるし
   それはどうにもならない問題である。
   ここから演繹して、トラウマについて考える必要はないだろう
   としてもいいだろう。
   大事なのは、目の前のコトであり、
   今日であり、本日である。
   ヨガをすると、床を使うので、床がきれいになるはずだ。

トラウマは、確かに日本語になったように思う。
初出は、フロイトか、時間があるときに調べてもいいが、
日本語をあてれば、心的な外傷、転んでケガしたなら、
単純な外傷だが、”心的な”という部分がミソだろう。
 トラウマは一般化したかもしれないが、
 トラウマを利用して、現在とよくつきあう
 方法は、まだ一般化していないだろう。
 思考は現実になるものだ、と唐突に持ち出してしまえば
 この人はあやしそうだといった分類になってしまう。

 たとえば、わたしは他人に指示を出せないという
 自覚がある。また、女性と話すのがあまり得意でないとも思う。
 この2点について考えてみよう。

 指示を出せないという部分は、子供のころ周囲から
 反感をかってしまった経験によると考えている。
  子供だからしかたないさ、とかたずければそれでいいコトだろう。
   しかし、先天的に反感をかうようなタイプとは
   考えにくい。
   親の影響か、兄弟の影響かわからないが、
   たとえば、他人が自分の思う通りに動かないと
   無性に不愉快になるパーソナリティーになってしまった場合、
   子供同士でも、周囲から反発されるだろうが、
   ほんとに本人の問題だろうか。赤子が
   先天的にそういった要素をかかえるとはわたしは思えない。

   次の点だが、たとえば、非常に小さいころ
   女子に追いかけられつづけた、といった経験はどうだろうか。
   実は、わたしは喜怒哀楽がなく、プロレス中継ばかりみていた?
   たぐいだが、極端におとなしいから、ある女子から
   追い回されたかもしれない。人間というのは、自分より弱者に
   夢中になるものである。
    そう考えていくと、たとえば、親子間のコミュニケーション不足、
    会話の不成立がのちのち大きく作用するかもしれない。
    後者についていえば、意識せず話のできる女性を
    さがせば解決できそうだ。追い回されて恐怖心を持っているのだから、
    たくさんの女性の中から、気兼ねなく話せそうな人を見つければいいだろう。
    このように、過去の鉱物を分析して、推進力にかえるのは可能であり、
    鉱物的推進力の論理とここでは名付けておこう。
     成功者の話を聞いて、その人のトラウマを知るのも、
     自分を分析するのに役立つと思う。ただ、
     分析せずとも、前にすすむなら、この作業は必要ない作業になってしまう。

ものごとを自分で考えるようになったのは、
高校生のころと回想していると、
調度、落合がパ・リーグからセへ移籍したのも
あのころだったかなと思う。
 ドラゴンズには、立浪がいたし、立浪監督は
 学年的には、2個上だったような気がする。
  立浪監督は、もっと早く監督になれると思っていた
  と話すが、わたしが大学生のころ
  つまり92年から4年間は
  調度、高木守道監督時代であり、
  有名な名古屋決戦があったのも
  この年間である。
   ただ、わたしは野球どころでなく、
   あの視聴率の高かった試合も見てなかった。
    このあと、星野の第二次政権、山田久志らをへて
    俺流監督時代がはじまったわけだが、
    今でも、当時の強さを求めるファンは多い。
    その後、落合の派閥的な監督が続きた。
    それが、立浪監督が待たねばならなかった理由だろうが、
    あまり待たされたと言わない方がいいだろう。
     二軍に片岡篤史を持ってきて、バッテリーコーチには
     中学時代の桑田を受けた西山秀二を起用。
     どういった野球を見せてくれるか楽しみである。

”現在が、願った結果であり、願った現在”
思考が現実になる、という考えは
まだまだ一般的でないだろう。
 考えたコトが、現実になる、つまり
 マイナス思考すれば、負が連続するといった考えだが、
 まだまだ常識ではない。

 考えたコトが現実になるのはむしろ、稀であり
 たとえば、イチローのような特殊な人が
 努力して、できそうもない夢を現実にしたのだ、
 といった方が、つまりこれこそ常識的な考えであり、
 生き方、処世術ではなかろうか。
  要約すると、たいていの人にとって
  夢を現実化、あるいは具現化するのはむつかしくて、
  素直に生きた方がいい。耐えた方がいい
  というのが常識的だろう。
  だから、わたしは無数の常識人に囲まれて
  生きていることになる。
   だから、2つの考えがあり、
   現実は厳しいもの。思考とは関係ない。
   思考が現実であり、マイナス思考はあまりしない方がいい。

  といった2つの考えが最低限存在し、
  上位を好む人が

#検証

2022-01-21 08:13:30 +0000