さて、このテーマですこし考えてみよう。
有名になりたいとは、いいかえると
承認されたいということである。
例えば、家族の中で、なんらかの理由で
居場所がないとしよう。
中森明菜の例がわかりやすい。
病弱だった彼女は、家族の足手まといであり、
有名になり、経済的にも得て、自分でありつづけたと
説明できるだろう。しかし、永遠にヒット曲を連発するのはむつかしく、
いつかシーンから消えてしまった。
しかし、途中までは、家族関係とスターである自分、
スターとしての社会性が一致したことになる。
次に、中森明菜のように有名になりたかった
と考えてみよう。たしか、おねえタレントで
そんな人がいたっけ。
だから、願望がかなわないわけではないのだ。
はたから見れば、明らかに明菜と異なるが
本人的には、紆余曲折して、おねぇタレントとして
地位を築いたと説明できるだろう。
ただ、わたしのいうのはそうでなく、
歌を歌うにしても、もう50だし
自分の仕事で有名になりたいと考えた場合、
それなりに有名になっているかもしれない。
ということは、冷静に分析してみると、
実は願望がかなっていたというパターンかもしれない。
さて、左派と保守派について考えてみよう。
左派と右派といわないのだろうか。右派が保守派なのだろうか。
左派といえば、共産主義が思い浮かぶ。
ひとつ、生産手段の国有化と書いてみよう。
マルクス的にいえば、資本が生産手段や機械になり、
経営者たちによる国家が、資本主義国である。
これら機械などを、国有化して
このあたりは池上彰氏が詳しいが、
粛清をへて、共産国が成立している。
もっとも、ソ連はもうないのだが、
日本の浅間事件も、スケールはかなり小さいが、
銃を所有していたと思う。
ただ、中国がほんとうに経済部門だけ
自由化しているなら、古典経済学はあてはまらなくなるだろう。
だから、今左派という言葉がさしているのは、
生産手段の国有化でなく、例えば、情報の統制であろう。
だから、アメリカが左派かしているというのは、
個人の自由や異議申し立てがしにくくなっている。
それを左派化と呼んでいるのではなかろうか。
これに対して、保守は、対角線上に位置するから、
古きアメリカ的で、ジャンボジェットで移動するトランプ氏をさしている。
そして、昨年の選挙あたりから、トランプ待望論といった調子である。
しかし、それも正しい選択だろうか。
左派化しているというのは、上に書いたとおり、
共産主義の理論、つまり、生産手段の国有化という意味でなく、
単純にコンピューター社会がすすんだからではなかろうか。
それが、もとから存在した中国と結びついた。相性がよかったかもしれない。
反対に、米国からはじまったコンピューター技術だが、
コンピューター業界に富が集まるのが、皮肉にも保守的な経済と対立した
ように見える。だから、分断といわれているのは、
コンピューター社会に適応できる人物と、古い人たち、
例えば、体育会系のタテ社会を好むような人たちが対立しているのでは
なかろうか。コロナが長期化すれば、宴会もなくなり、こういった人たちは
隅に追いやられてしまうだろう。
こう考えると、共産党が世界を支配する世界もあながち来ないともいえない。
人々は近所で働き、スーパーマーケットに通い、遠くの情報は
コンピューターで共有するといった、きわめて住所的な人生が待っているかも
しれない。
対他身体
これから、メタバース社会になるなら
なおさら、対他身体が問われるだろう。
最近話題のアバターが、まさに対他身体ではなかろうか。
これには、没入型と、非没入があるように思う。
調度、ガンダムのボールを操縦していると考えてください。
スコープからは、自分の両腕が見えるだけですね。
これを没入型としましょう。
これとは反対に、キャラクターの背中が見えるかたちの
ゲームがありますよね。自分は自分を見ているのですが、
背中を眺めながら、アバターをコントロールするわけです。
この方が没入感があるなら、こちらが標準になるでしょう。
また、マイクロソフト系のメタは、足がない。
シャアのように、足はないのか、といいたかったが、
ま、これからいろいろ出てきて、そして標準が決まるのでは
ないでしょうか。
わたしは今、対他身体を拡大して
人間大にするのを考えています。
あまり大きくしすぎて、大仏のようになったら
逆に感情移入できないでしょう。
対他身体を人間大にするのは、
メタでなく、現実に没入するためです。
この年になって、こういったことがすこしわかってきた
かもしれません。
「夢は実現する」
夢は実現すると書いたが、そんなもの実現するものか、
という人はそれでいい。ここからが説明であり、
潜在意識において、実現するはずないと思うから
実現しないのだ、とここでは書く。
それならば、ここにおいて、対他身体をどう説明できるだろうか。
対他身体が、いわゆるブレーキになっているのではなかろうか。
自己実現したと思ったら、他者を通してそれが実現した。
つまり、手のひらからするりとすり抜けてしまったのだ。
対他身体を、人物大に拡大すると書いたが、
さらに小さくしていって、消してしまっていいかもしれない。
いずれにしても、最近よく没入といわれるが、
われわれが没入すべきは、画面の向こう側でなく
まさに現実に没入しているのである。ただそれだけなのだ。
願望が実現しないのは、対他身体が邪魔をしているからではなかろうか。
対他身体は、抑制力があるはずである。
つまり、抑圧である。
他人に危害を加える場合に、やられたことを考えて、
危害を加えてはいけないといったたぐいの話であり、
これは対他身体以前の問題であり、基本的な法ではなかろうか。
わたしたちがいう成功とは、社会的な成功であり
法の上に成り立っているはずである。
日本でいえば、憲法や法があり、
商売があり、商売で成功すれば、それなりの成功を手にできなければウソだろう。
何のために働いているかわからないだろう。
潜在意識論で、よくブレーキをはずすと出てくるが、
このブレーキの正体が、対他身体ではなかろうか。
ブレーキの話をすると、例えば、お金は汚いものと
教育されてしまい、大人になってからも、そう教育されたことも忘れてしまい、
どことなく成功できず貧しさを感じる。このときブレーキになっているのは、
お金は汚いよという経験で、そのブレーキをはずす必要があると
論じられることは多い。
そして、そのブレーキの一つとして
対他身体があるかもしれない。これは
苫米地氏のコンフォートゾーンとも似ており、
親や先生が押さえつける場合があるという話
2021-11-29 16:47:21 +0000