ガイウス・マリウス
「キンブリ、テウトネスの部族以外にも北方の危険は絶えぬのだスッラよ、ガリア人の懐柔は任せる。成功を信じているぞ(信じるとも、有能なお前の野心以外はな)」
ルキウス・コルネリウス・スッラ
「お任せください、必ずやご期待に応えて御覧に入れましょう(ハッ、せいぜい応えてやるさ、今のところはな)」
百人隊長
「スッラ殿、我々の出番はまだですか?」
スッラ
「喧嘩を吹っ掛けるにも下準備が必要でな。勝つためには事前に出来るだけのことをやらねばならんのよ。
舐め腐った連中の鼻っ柱をへし折って飽きるほど血を浴び、何もかも喰らって奪い尽くす素敵な旅を提供してやるから、司令官を信じて訓練して待っててね(士気旺盛は重畳だが爆発しかねん……マリウスの驢馬、とんでもない荒馬じゃねえか)」
マリウス
「……(やつはやる。私と同じか、あるいはそれ以上に何でも上手くやり遂げる。それ故にあまりにも危険だ)」
――前2世紀末、キンブリ・テウトニ戦争の最中、スッラにガリア人との交渉を任せるマリウスと次第に野心を露わにするスッラ
前3~2世紀にかけてカルタゴとの戦い、マケドニア、ギリシアへの軍事介入などローマは勝利を重ね地中海世界における影響力を高めましたが、一方で市民が兵役につく間に放置された農地は荒れ、征服地から流入する安価な穀物により中小農民は没落、手放された農地や獲得した奴隷による貴族や富豪のラティフンディウム(大土地所有とその経営)の発達がその情勢を加速させました。
*もっとも、この中小農民と大土地所有、平民と貴族や富裕層という二分的な見方と社会の変化については考古学的検証からそうでもないという疑問も呈されているようです。
ローマの兵役には装備自弁や資格資産など条件があり、市民が没落して条件を満たすことが難しくなるにつれてローマの戦力も質も低下しました。グラックス兄弟による改革など状況を変える動きもありましたがこれは元老院や貴族に阻まれ、成功には至りませんでした。相次ぐ勝利と征服が社会構造を大きく変え、ローマの強みであった軍事力にも無視できない影響を与えつつあった頃、拡大した勢力圏は様々な内憂外患を抱え、前113年以来キンブリ人とテウトネス人に敗北を重ね、アフリカのヌミディアではユグルタ王が台頭しつつありました。
北方へ南方へとローマは軍団を派遣しますが決定的な勝利を得ることが出来ず、それどころかユグルタ王に政治指導者が買収されるなど元老院の指導力低下、指導層の腐敗が明らかになりました。ここで優れた統率力を備えた人物、厳格かつ休むことを知らぬ男、武骨だが信賞必罰を重んじるガイウス・マリウスが頭角を現します。彼はユグルタ王との戦いを解決することを主張して執政官に選出されましたが、貴族然とした政治的傾向を持つ元の上官メテッルスとの確執から引き継ぐべき軍勢が同僚執政官のロンギヌスに任されてしまったため、歩兵も騎兵も不足するという危機に陥りました。
こうしてマリウスは当面の状況を解決すべく、ローマ軍団の改革に着手します。これが「マリウスの軍制改革」であり、改革は軍事面の変化だけに止まらず、彼の意図の如何を越えてローマの体制・政治・社会、歴史の行く末に大きな影響を及ぼしました。
改革の骨子としては志願制への移行、自弁だった装備の支給、給与支給、従軍期間25年の規定、退職報酬(土地や退職金)、軍司令官配下の軍団数制限撤廃(従来は2個軍団)が挙げられます。これにより無産市民(農地などの生活基盤を持たない市民)は兵士という職業に就き、戦争に働き手を取られていた中小農民は兵役から解放され、さらには戦役の都度編制され経験や知識、士気や伝統などの連続性を保つことが難しかった軍団は志願した職業軍人が長期に渡り従軍する強力な軍事力に変貌しました。
軍事制度の改革は組織の細部にも及び、ハスタティやプリンキペスやトリアリイといった年齢や資産別の構成も事実上廃止、弓兵や投石兵は主にアウクシリア(同盟軍)で構成、組織の単位も従来のマニプルス(百人隊2個の中隊)からコホルス(百人隊6個の大隊)が中心となり、一個軍団は百人隊80人×6個のコホルスが10個で構成されることになりました。軍団兵達は装備に加えて食料も自身で背負い、その重装備の様子は「マリウスの驢馬」と呼ばれました。軍団の象徴である軍団旗が鷲に統一されたのもこの頃とされています。
こうして鍛え上げた軍団とスッラの交渉力を以ってマリウスはユグルタ王を打ち破り、その身柄を捕らえることに成功、公約通り戦争を終結させました。さらには前113年から引き摺っていたキンブリ・テウトニ戦争をアクアエ・セクスティアエとウェルケラエの戦いの完膚なきまでの勝利(キンブリ族・テウトネス族・アンブロネス族の消滅に近い敗北)によって終結させ、ノレイア、ブルディガラ、アラウシオと歴史的大敗を喫したローマの名誉と安全の回復を図ることに成功しました。
職業として確立された軍団はプロの戦闘集団に変貌し、長期の従軍生活は組織の結束や連帯を強め、専業化したことで長期作戦や戦略を柔軟に展開可能な軍事力となりました。しかしながら、様々な利点をもたらした改革は新たな危険も孕んでいました。軍団には強い結束と連帯が育まれましたが、反面それまでの市民軍とは一線を画す軍事集団となり、地域社会や政治から乖離した存在となっていきました。軍団兵は地方政治や元老院よりも自分たちに直接利益をもたらす者、給料や褒賞や退職金を与える者への忠誠を強め、軍団は有力者の私兵集団になる可能性を持っていました。それはローマが共同体の利益と相反した行動を取り得る、より強力な集団をその身中に宿すことを意味しました。
軍団がその司令官への忠誠を強める一方で司令官もまた軍団の支持を得るために野心的かつ積極的な戦略に傾倒する傾向が強まりました。有力政治家や軍司令官が私欲や名声の為に軍事力を行使することはそれまでも多々見られたことですが、これ以降はその傾向がさらに顕著となります。さらにこの変革において志願制に傾いたローマ軍に対して同盟勢力から供出される戦力には改革が及ばず、ローマ市民と非市民、その兵役等の待遇格差が明らかとなり、イタリア半島内の市民権を巡る熾烈な戦い、同盟市戦争の原因にも繋がりました。
軍事的功績を背景にマリウスは政界にも台頭し、執政官に七度就任するという記録を残すものの、その政治力はあまり振るわず門閥派の傾向を顕わにしたスッラの離反、民衆派の制御にも失敗するなど影響力を低下させて政界から一度距離を取る事となりました。
その後にマリウスとローマを待っていたのは先述の同盟市戦争とスッラの台頭、内戦勃発と相互の勢力が入り乱れて繰り返される独裁と悲惨な粛清でした。スッラの死後はポンペイウス、クラッスス、そして誰もが知るカエサルといった有力な指導者が各々の才能、あるいは財産や軍事力と戦果を背景に政治的影響力を高め競い、やがて争う内乱の世紀が訪れます。こうして帝政ローマへの道が共和制ローマの最後に切り拓かれていったのでした(超駆足でまとめに入った)
2021-06-22 12:46:38 +0000