心地よい春は瞬く間に過ぎ、新緑の眩しさとともに、汗ばむ陽気の季節の入り口に差し掛かる。時折吹くそよ風と鳥の声を感じながら、黒いパーカーに身を包んだ鬼神は、凪ぐ水面を見つめ、じっと待っていた。
(…来た!)
浮き玉が僅かに沈むのを見逃さず、横へ引っ張るように素早く引く。棹に感じる重さと共に、きらりと光る魚が、舞うように姿を見せた。
「すげえ、来て三十分もしねぇのに六匹目だぜ」
「やっぱ鬼灯は魚獲るの上手いな」
鬼灯の釣りっぷりを賞賛するのは、幼馴染みの鬼、烏頭と蓬だ。ここは現世の釣り堀。市街から割りと離れていないのに自然豊かな森の中にあるここは、家族連れなどに人気のレジャースポットだ。岩魚(イワナ)と山女(ヤマメ)を中心に生け簀に常時川魚が泳ぎ、釣った魚は買取りすればその場で炭火焼きにしてくれる。久々に揃って有給休暇がとれた鬼灯たちの、今日のお目当てもそれだった。
「今日は何匹くらい食べます?」
「お前こそ何匹釣る気なんだ?」
「いや制限ないと無限に釣ってしまうので…」
「腹空かせようと思って今朝おかわりしてねぇからな~…三、四匹はいけっかな?」
「ではあと十五匹は釣れますね」
「待て待て待てお前だけで何匹食う気だ」
漫才の掛け合いの如き会話を尻目に、のんびり糸を垂らしていた蓬の棹に、反応があった。
「おわっ、来た!ちょ、まっ」
慌てて引き上げたため、反動で棹は大きく弧を描き、烏頭が座っているテーブルのそばに着地した。
「危ねっ」
「悪い、力加減がわかんなくて」
「そんなに力む必要はないですよ。糸の振動より浮きの沈み込みを目安にして、横方向を意識して軽く引っ張りあげるのがコツです」
釣り上げた岩魚は元気よく跳ね回っている。蓬はバケツの上で針を外そうとしていたが、「あれ、取れない」と呟いた。
「どうしました?」
「あ、いや、針が口の奥に入ってて取れなくて」
「あぁ、針飲んじゃいましたかね。施設の人に頼んでペンチ借りてきましょう」
やや言いつつ針を飲み込んだ魚と格闘するふたりを肘をついて眺めながら、烏頭はふと昔のことを思い出していた。
その昔、黄泉に来た鬼灯を一番最初に見つけたのが、自分たちだった。見慣れない子鬼に「仲間だ」と声をかけた蓬に続いて髪型に突っ込んでみたら、あっさり「私はこれでいいです」と答えられた。これが全ての始まりだ。
丁と名乗る彼が、とりあえず服を着替えたいというので、烏頭の家に連れ帰って、母親に古着を見繕ってもらった。丁が選んだのは、第一印象と対極な黒の衣裳だった。脱ぎ捨てられた白装束をこっそり着てみようとしたら、親父に拳骨をお見舞いされた。なにすんだよ、と叫んだのが聞こえたらしく、彼はひょっこり顔を出して、人身御供の着物ですよ、とだけ答えた。なんだそれ、としか思わなかったが、後になってその意味を理解した。
あの頃あいつは人一倍冷静だった一方、ひどく遠慮がちだった。飯は食べていいと言われるまで箸をつけない。何かにつけて口癖のように「申し訳ありません」と言う。自分の意見は言ってもわがままは一切言わなかった。俺の家に泊まっていたが、日中は俺たちと遊んでいても、隙あらば新居を探しに出ていた。お袋は見かねて、あなたお魚獲るの上手ね、獲ってきて貰えるととても嬉しいわ、お礼にご馳走するわよ、と言った。以来、洞窟暮らしが始まってからも、ちょくちょくうちにやって来ていた。
あるとき大柄なおっちゃんがやって来て、俺たちに何か黄泉で困ってる事はないか、と聞いてきた。後の閻魔大王だ。いつもの冷静明晰スキルを発揮した丁に彼は名前を聞いて、その上で改名しなよ。と言った。これが鬼灯爆誕の瞬間だ。あのとき初めて子どもっぽく「ひげひげ」なんてやったときの衝撃は計り知れない。あれだな。世に言うデレってやつだったな今思えば。今も鬼灯は大王のことは親のように慕ってる。わがままを言える、心許せる存在なんだろうな。俺たちにも今は言いたいことをズバズバ言ってくれる。
以来、人の顔色を伺う目付きは鳴りを潜めた。特に飯を食う時には嬉しそうな顔をしてた。表情筋はそんなに動かないけどわかる。当時の飯なんて、玄米の強飯(こわいい)、地獄羊肉の羮(あつもの)、漬物、塩を振って焼いた魚。それだけのごくシンプルなものだった。でも鬼灯は毎回、まるで初めて食うみたいに、それはもう美味そうに食う。
今もそうだ。目の前には、雪みたいに塩をまとってこんがり焼きたての岩魚が山積みされてる。鬼灯は手作りの超特大爆弾おむすびをお伴に、魚にかぶりついていた。
「おいおい、もう五匹目かよ」
半ば呆れたが、鬼灯はもぐもぐしながら「こんなの序の口です」なんて言う。噎せても知らねぇぞ、とお茶を勧めると、素直に受け取って口にした。
鬼灯とは親友でもあり、腐れ縁でもある。一緒に遊び、教え処に通い、時にはボンボンのガキ共と抗争した。いわゆる思春期には一緒にめっちゃトガってた。その延長線上で鬼灯はトレードマークの呪いの金棒を手に入れた。あのとき俺は、みなしごだと繰り返し馬鹿にされた鬼灯のために、自分よりも体格も力も強い相手に怒った。不思議と怖くはなかった。友達のためだから。みなしご、生け贄。その言葉の意味を、重みを、わかっていたら、絶対に馬鹿になんてできないと思ったから。
生前を思い出すときが、今でもあるのだろうか。でも、今までのさまざなできごと、つながりが、その苦しみをやわらげてくれていればいいと、今は補佐官ではなく気の置けない一人の鬼として、その横顔を見る。
「私はきっと、もう独りだった頃には戻れないんでしょう。ならば、それでいいと思うんです」
不意にこっちを見てそう言ってきたので、どきっとした。俺はたまにコイツは読心術でも使えんじゃねぇか、と内心焦ることもある。俺が魚の串をぽとりと取り落として、しどろもどろな様子に、「貴方自分が分かりにくい人だと思ってるんですか?」と溜め息をついた。
「何年人事やってると思ってんですか。舐めないでください」
「バッ…違ぇよ!っつーか休みの日に仕事スキル発揮すんじゃねぇ!」
「烏頭さんこそ何釣り竿魔改造してんですか。レンタル品ですよねそれ」
「うっせー!買い取りゃ問題ねぇだろ!」
ジト目を寄越す鬼灯と喧々囂々する烏頭を尻目に、蓬は岩魚を綺麗に焼けた順に並べて写真を撮る。何がツボがよくわからないがオタク気質は相変わらずだ。三者三様、性格も趣味も違うが、数千年変わらず、一緒にいる。これまでも、きっとこれからも。
「じゃあその改造竿のぶん、もう少し釣りますか」
「おう」
「焼いてもらってあの座敷童子たちのお土産にしようぜ。ここ来る前閻魔庁の廊下で会って炭火焼き食べたい食べたいって言ってたから」
「え…そういう大事なことは早く言ってください!」
いい年をした鬼たちの賑やかな声は、眩しい谷間にいつまでも響く。きらきら光る水面を、魚が一匹跳ねる音がした。
2021-05-28 10:15:04 +0000