伝令「戦象の突入は成功! ローマの戦列はボロ布のように切り裂かれ、全線に渡り崩壊! お味方大勝利にございます!!」
将軍「流石は陛下! アレクサンドロス大王の再来とはこのこと、天賦の才と弛まぬ研鑽が結実したと申せましょう!!」
ピュロス「……であれば良いがな。騎兵隊に伝令!可能な範囲で追撃を行い、戦果を拡大せよ。それから我が軍の死傷者をただちに確認しろ。先ほどから応答や状況報告が滞っている部隊が少なからず出ている。私の思い過ごしであれば良いが、嫌な予感がする。ローマ人共の粘り強さと来たらどうだ、私は知らぬうちに腰まで沼に浸かっているのではないか?」
将「勝利の報に浮かぬ顔でございますな。何か気がかりでも」
ピュロ「勝利とは文の上の曖昧な言葉に過ぎない。実際のところ我々は如何ほどの戦果を挙げたのか、損害はどうか。この会戦の勝利を戦争全体の勝利と目標に繋ぐことが出来るのか、それが明らかとなるまで、油断はならぬ。特にローマ人相手の戦において絶対に忘れてはならないことだ、我々は今までどれだけの敵を屠った、ヘラクレイアの勝利によってどれほどの出血を強いた?」
将「ムハハハ!我軍がこれまで敵に甚大な損害を与えてきたことは間違いありません。無論我々の損失も皆無ではありませんが……陛下の采配を以てすればさらなる勝利も疑いありますまい。それに私はローマ人が何度立ち上がろうと幾らでも斬り捨てて御覧に入れます。おかわり上等です」
ピュ「それは頼もしい。そう、君の様な命知らずの豪傑が千人いるなら話は別だろう。だが皆が君の様な勇者ではない。これは何万もの常人の戦いなのだ。君も私も生まれる時代が少し遅かったのかも知れぬな。あの者らは底知れぬ、敗北の度に立ち上がり、まるで無尽蔵であるかのように戦力を補充して立ち向かってくる。あるいはその土地と都市の全てを失い、槍を握り立ち上がる事の出来る全ての者が滅びるまで敗北を認めぬのではないか? 狂気の沙汰だがもしそうであれば、我々はローマ人の土地全てを塗り潰すように戦う羽目になる。行く先々で今日の様に熾烈な戦いを繰り広げたなら我が軍はどうなる? 私は決して諸君らの武勇を疑う事はない、我らは次の戦いもきっと勝利するだろう。しかし無傷とは行かない。失血多量の勝利をあと数度重ねたなら、我々の手元に何が残る? 優秀な指揮官、屈強で忠実な兵、そして友、戦いの度にそれら得難きものを失うことは避けられない。たとえ勝利してその末に何もかも失ったなら、それは勝利や栄光とは呼べぬだろう。それはまさに破滅に他ならない。故に全軍の状況を確認せよ、今日の勝利はその犠牲に値するか吟味する必要がある。かほどに忠勇な兵を淡雪のように溶かす、愚かな投資をしたと後世の者は謗るかもしれぬ。キネアスの小言が聞こえる様だ」
将「陛下ほどの立場に至る才も志も覇気も無き者は、しばしば自身を慰める為に偉大な者を軽侮するものです。哀れな者共に“言い訳”を与えてやるのも英傑の器量にございましょう」
ピ「ハッ、武辺者の割になかなかどうして慰めるのが上手いではないか!」
――アスクルムの戦い、ローマ軍を撃破したピュロス王とエピロスの軍勢
という具合かは不明ですが多分そんな感じだったんじゃないかなと(いつも通り)。
今回は有名なハンニバルの前にローマに立ちはだかった強敵の一人であるピュロス王を。「ピュロスの勝利」という故事によって現代でも広く知られております。ハンニバルも評価したと“逸話”が残るほどの戦術家であり、アレクサンドロス大王に次ぐと評価されることもある人です。
さて、ピュロス王とはどこの誰なのか。何故ローマと戦ったのか。
ピュロスはエピロス王アイアキデスの子として前319年に生まれました。エピロスとは現在のギリシアやアルバニアにあたる地域のうちイオニア海沿岸周辺、イタリア半島の踵の東、対岸にあったギリシア人植民都市に端を発する国です。ピュロスは幼少期に反乱により亡命し、12歳で王に即位するも再び反乱によって亡命することとなりました。義兄デメトリオス1世の下でディアドコイ戦争に参加、やがて戦術の天才と呼ばれるその才能の片鱗を見せ始めるも敗北し、プトレマイオス1世の人質となります。が、ここでその堂々たる立ち居振る舞いの美しさと大胆さがプトレマイオスの目に留まり、やがてその支持により二度目のエピロス王に即位します(モムゼンの言に従えば、プトレマイオスは炎の如き精神を持った者を自身の政策に役立てる術を知っていたと。食えない)。マケドニア王位も獲得するのですがこれは(略
同時代のローマはどの様な状況にあったかと言えば、地中海を席巻する大帝国の面影は未だ遠く、イタリアの支配も先の話で近所のサムニウム人との三度目の戦争が終わったのが前290年、半島統一が前270年頃ですからまだまだ興隆の途上にあったと言えましょう。ではイタリア半島の対岸にいたアレクサンドロス大王の後継者争い、ディアドコイ戦争の申し子みたいなピュロスが何故西方のローマと事を構えるに至ったのか。
発端は前282年、南イタリアのターレス(タレントゥム)がローマの船団を攻撃し、ローマによる抗議や捕虜解放、損害賠償の提起に対してこれを拒否したため勃発した諍いにあります。これだけならローマに抗議や宣戦の正当性があるように見えますが、船団は“観光”の為に条約により設定された境界線を侵犯したとか、“乗船客”はターレスと対立する都市トゥリオイへの援軍であったとか、多くの歴史家が様々に記録し、
経緯の詳細は不明です。しかし、どの様な理由にせよ、膨張するローマと半島の有力都市の衝突は時間の問題であったことは間違いないでしょう。
豊かなるも常備戦力に欠けるターレスは半島対岸のピュロスに支援要請し、南下するローマの迎撃を企図しました。ローマと近隣植民市の摩擦、そして戦争という流れは年表を追う限り幾度も見ることになります。
覇権国家の過去を辿ればどの国も同様の過去を持っているのではないかとも思いますが。
ピュロスにとって征西にどれほどの価値があったかは難しいところですが、シケリア(シチリア)征服の野心(アテナイがそうであったように)において障害となるローマの存在を視野に入れ、ターレスの提案を好機と見た可能性は高いでしょう。その先には失われたマケドニア奪還、さらには東征のための資金を獲得するという目標があったのでしょう。一方で腹心のキネアス(雄弁なるデモステネスの弟子)はその野心の不毛さ、ローマとの戦争が割に合わないことを以下の様に説いたとされています。
――長いので画像の続きに後半を貼っておきます――
参考資料:プルタルコス「対比列伝」、モムゼン「ローマの歴史」、Osprey「The Army of Pyrrhus of Epirus」等々、地図はパブリック・ドメインのものを拝借 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%AD%E3%82%B9%E6%88%A6%E4%BA%89
2021-03-25 14:17:50 +0000