かくして、老獪なヴィスレン市議会議員のドナルド・ブロートンが苦心惨憺の末に築き上げたアリバイ工作は、皺くちゃのモッズコートを羽織ったこの「市立図書館の司書」の手であっさりと打ち崩された。2日と持たなかった。
ここに居合わせた他の誰もがこの不潔で、とても暗い所で暴かれた事実の呪わしさを噛み締める中で、愛人殺しの張本人であるブロートンだけが蒼ざめた唇をぱくぱくさせながら、脳裏を駆け回るいくつもの「なぜ」を鎮められずにいた。
「他にもお聞きしなければならない事はありますが、お時間は取らせません」
安心させようとしてなのか、司書は呆然と立ち尽くしているブロートンの妻や友人たちに向かって言う。あっさりとした口調が、かえって刺々しく響いた。
「彼しか知らないことを皆さんが話せるはずもないでしょう」
「あ……悪趣味な小娘が、調子に乗るなよ」ブロートンは眼前の女に震える指を突きつけた。
「この儂を誰だと思っているんだ。き、貴様、市立図書館の司書とか言ったな。こんな馬鹿げた作り話で儂を陥れようとしたって、市議会にいる儂の味方が黙っておらんぞ。これからは眠れぬ夜が続くだろうよ、今に儂の無実が証明されて、貴様は名誉棄損で訴えられるか、今の仕事を失って一文無しになるかなんだからな」
ようやく絞り出した台詞がそれか。本当にお前は救いようのない奴だな。そんな小さなプライドを守れさえすれば満足できる手合いの、臆病で怠惰で卑劣な大人ですと名乗らんばかりじゃねぇか。
……そう言って嘲笑うように、赤錆びた踏切の警報器がけたたましい音を立て始めた。だが、それでも彼は見たかった。最後にせめて少しでも、この生意気な若い女が自分のしでかした事の大きさにうろたえる顔を、見たかったのだ。
「そうですね」
最後の子供じみた欲望さえも潰えた。
雨に濡れた廃墟のように陰鬱なチャコールグレイに染まったショートヘアの、メイという若い女。これまでいくつもの事件の真相解明に貢献し、破滅の道を辿った犯罪者たちからは恐怖と怨念をこめて“メイヘム(Mayhem―混乱)”と呼ばれているこの女。そんな彼女の微動だにしない目が、風に揺れる前髪の向こう側からブロートンを見据えている。
血色の悪い肌の上で、彼女の瞳は不自然なほど爛々と輝いていた。彼女の背後で回送電車が塗りつぶしたように真っ暗な窓をいくつも滑らせていったその瞬間、ブロートンは激しい戦慄に襲われた。
この瞳に燃える輝きの中には、未来がない。群衆の歓声を浴びて快楽に蕩ける英雄の官能的な舞台も、偽善的な憐憫や義憤にまみれた断罪の儀式も、何も見えない。ただ眼前の事実が無表情で横たわっているだけだ。ならば、市立図書館の司書というまともな本職がありながら、面白くもないのにこんなことをやっているこの女は、いったい何なのだ。
顔色を失った市議会議員の心には今、奇妙な自問が芽生え始めていた。常軌を逸した思考回路を持った何かに面と向かい合った時、人間—まさに今の自分—は“闇”とか“閉ざされた扉”とかいう表現を使って、相手が不完全だが辛うじて人間的な心の持ち主だ、という最後の希望を求めようとしがちな生き物なのではないか?闇や影があるのはそこに光が存在するからだと、信じたがっているのではないか?だがそこに錠前も、ドアノブも、そもそも扉など無かったら?その心を満遍のない黒で整然と覆い尽くすものが闇なんてものではなく、ただの壁紙だったら? もしそうだとしたら、お前は、お前は・・・
「不眠症なものですから」
2020-12-13 08:23:04 +0000