せっかく現世に人気紫陽花スイーツを食べにきたというのに、漆黒の着物を纏ったその鬼神は始終浮かない顔である。
閻魔庁に書類提出に訪れたある日、鬼灯様は座敷童子二人にしがみつかれて困惑していた。いつもの「連れてって!」攻撃だ。現世に作られた妖怪専用旅館「やまや」の系列店として最近オープンした喫茶店「八千代」は、現世の人気店のようなこだわりの甘味を正体を隠さずに味わえ、また綺麗なスイーツと庭に咲き乱れる紫陽花が写真映えすると、流行に敏感な衆合地獄の獄卒たちの間で大変話題になっている。甘いもの、特に小豆が好物の一子二子が見逃すはずもなかった。
「鬼灯様、どうかなさいました?」
珍しくおろおろする鬼灯にお香が声をかけると、丁度よかったとばかりに顔をあげた。
「明日、ここの店に行きたいと言って聞かないんですよ」
「だって、明日鬼灯様お休みだよね」
「行きたい、行きたい」
「現世は明日雨の予報ですよ。行くならせめて来週にしなさい」
「いやだ。雨と紫陽花とお菓子の写真撮る」
「オニスタグラムに上げる」
「いやでもですね、私基本的に天気が悪い日は現世には行かな」
「基本的になら例外もあるでしょ」
「行きたい行きたい行きたい」
鬼灯も頑固だが、座敷童子も頑なに譲らない。しかし何故しょっちゅう仕事でもプライベートでも現世に出掛ける鬼灯様が、今回に限って消極的なのか。考えあぐねていると、困り顔の閻魔大王が口を挟んだ。
「わらしちゃん、鬼灯君がお天気のいい日にしか出掛けないっていうのは本当なんだ。いつもは夏場とか冬に出掛けることが多いし…」
「『やだ!』」
二人の駄々こねぶりは、さながらト○ロのメイちゃんである。にっちもさっちもいかない状況に、お香は恐る恐る手をあげた。
「でしたら、私が連れて行きましょうか…?」
そんな経緯で、今日の運びとなったのだ。但しどうしても鬼灯様と一緒がいいと言い張る二人に根負けし、渋々鬼灯様もついてきた。一面青の紫陽花がより色濃く映えるテラス席で、双子はひとしきり豪華に彩られたぜんざいと景色を楽しみ、写真を撮りまくって、今は美味しそうに頬張っている。鮮やかなゼリーが美しいパフェのクリームを掬い上げて、ふと見遣ると、鬼灯様は不貞腐れた顔で、スプーンの上のさくらんぼをくるくると回していた。
「鬼灯様は、雨がお嫌いなの?」
一瞬、鬼灯様の動きが止まる。匙の果実がぽとりとあんみつに着地した。
「ど、うして」
「顔に出ていますもの。それに、昨日あれだけ渋ってらっしゃったのは、雨の予報だったからでしょう?」
鬼神の目が見開かれる。衆合地獄の副主任たるもの、他人の心の機微に敏くなければ務まらない。座敷童子たちも、食べるのも忘れて目をぱちくりさせている。
「そうだったの」
「そういえば、いつもは連れてってもらえる映画も『天気の子』だけは連れてってくれなかった」
「なんか悪いことしちゃった」
「ごめんなさい」
頭を垂れる童子たちに、鬼灯様は慌てて「そんなつもりでは」と制止した。
「本当に、個人的な理由なんです。気を遣わせてしまって、すみません」
鬼灯様は、静かにスプーンを置いた。雨音響く庭に、神妙な空気が流れる。
「祈るだけで天気が変わるなら、苦労しません」
遠くを見るように、鬼神の目が細められる。鬼灯様は元人間で、幼くして雨乞いの生贄になったのだと唐瓜に聞いたことを、今思い出した。
「人身御供なんてものは、人間の気休めでしかないんですよ。どんな大義名分があろうと、こちらは殺されたわけですし、苦しいだけです。安らかになんて、死ねませんでしたから」
生きながら死装束を着せられ、祭壇の上でただ死ぬのを待つしかなかったのだという。独り飢え渇き死にゆく苦しみを、孤児で余所者だというだけで背負わされた彼の苦痛と恨みは、いかばかりだったか。
「自然現象なんですから、今こうして降るも降らぬもどうしようもないことだと、頭では分かっているんです。でも、雨を見ると、いつも、こんなに簡単に降るもののために、私は犠牲になったのかと…」
組まれた指がぎゅっと握り締められる。伏せられた表情は、こちらから伺い知ることはできない。
そのときだった。小さな手が、ぽん、と鬼灯様の頭の上に置かれた。
「…?」
鬼灯様は何が起きたかわからないような、きょとんとした顔だ。一子は、椅子の上に爪先立ちして、懸命に頭を撫でている。
「ど、どうしたんです、急に」
困惑する鬼灯様をよそに、二子の手も加わり、鬼灯様はされるがままにわしゃわしゃされていた。
「ううん、なんとなく」
「なでなでしたくなった」
「…そうですか」
心地よい温もりを感じてか、鬼灯様は静かに目を閉じて、二人の幼子を抱きしめた。張り詰めていた空気は、いつの間にか緩んでいる。その顔はまるで昔の、幼い頃の鬼灯様の面影を映すようだった。
彼は、供養されておらずずっと祟り神なのだという。あの頃のことは昨日のように思い出せる。小鬼にしては大人びた、今と変わらず冷静で合理的で、でも短気でどこか幼くて。殆ど動かない表情の下で、あの世一と言われる怨念を秘めて。あの世で居場所を得、閻魔大王第一補佐官という地位に上り詰めてなお、彼の心の中の時間は、あの頃のまま止まっているのだろう。
だが、鬼火を呼び鬼となりあの世へ来なければ、彼が今ここでこんなに穏やかな顔をすることはきっとなかった。さまざまな偶然が今を形作っているのだ。今は獄卒としてではなく、この鬼神の幼馴染みとして、親子のような三人を微笑ましく見つめる。今は、一子が小さな青花を一房手折り、鬼灯様の耳の上に飾ってはしゃいでいる。早く食べないとアイスが溶けますよ、と言う彼の顔は、さっきより明るく見えた。
―――せめて彼の心に、平安を。
お香が心のなかで祈ったことを知ってか知らずか、長く続いた曇天に、僅かな陽が差し、虹が覗いた。
2020-07-18 08:05:14 +0000