【桓沖の季節】
江陵から南渡してきた桓沖の部隊の最後尾が上明へと入った。
太元八(西暦383)年五月、車騎将軍桓沖に率いられた約10万の遠征軍が苻秦に一撃を食らわせるべく北伐を敢行した。桓沖自身は若干躊躇するところがあったものの、建康からの強い要望に応えた形での遠征となった。一撃を食らわせるまでは良かったのかもしれないが、直後に動員により膨れ上がった秦軍相手には多勢に無勢。湧き上がる大兵力との間合いを切りつつ、間一髪で何とか逃げ果せたというのが偽らざる実情であった。
建康から派遣されていた左衛将軍張玄之は、桓沖が上明まで後退してきたことにほっと胸を撫で下ろした。謝安からは、桓沖には荊州の長江流域を保持させ、少しでも長く巴蜀からの秦の水軍の東下を押し止めるよう仰せつかってきていた。
昨年の暮れに北伐の段取りを桓沖に伝達した際には、その将略の稚拙さを面罵されたこともあり(発案自体は当然ながら建康の謝安だったわけだが)、張玄之は桓沖に面会することにやや気後れするところがあった。
とは言え、桓沖がその後退の途上秦の慕容垂の追撃を受け、一時は音信不通に陥ったと聞いていたこともあり、何はともあれその無事を喜ぶ旨を申し奉らんと、今か今かとその帰りを待ち望んでいたのも、また、ほかならぬ張玄之その人であった。
上明の城門が閉まる。ようやく全軍が収用されたようである。
最後まで桓沖に同行し、車騎府の幕僚たちを守り抜いたのは参軍の馮該である。張玄之は謝玄から、荊州で同僚だった馮該と郭銓に対する贈答品を預かって来ていたが、郭銓は襄陽以北の地で秦軍主力の南下を阻むべく伏撃部隊を率いて作戦しているとのことで、仕方なく馮該にのみ手渡すことにした。
当然この場で手渡すわけではなく、後ほど謝玄からの書簡を届けるという体で馮該との接触を図った。
州治上明に帰還するや、桓沖のもとにはとても処理しきれない量の報告や決裁を求める文書が運び込まれようとしていた。
張玄之としては、参軍馮該を通じて多忙な桓沖に少しでも早く面会できるよう働きかけてもらうつもりであった。
襄陽の地で桓沖の軍と接触し、一戦交えた慕容垂は不満を隠しきれなかった。
「感触は十分……、確実に討ち取っているはずなのに死体が上がらんと言うのはどういうことか。」
鮮卑軽騎を率いての電撃的な急襲─車騎府の車列の襲撃により、多くの晋兵が蹴散らされた。ある者は漢水に落ちて溺れ死に、またある者は断崖から転落死をした。
それでも桓沖の遺体が上がらないわけだから、慕容垂としては面白くない。拙速に逸り過ぎたかと自らを戒める。随伴していた石越に意見を求めたが、桓沖ほどの大物ともなれば、殿軍にいると見せかけて、その実さっさと上明まで逃げ帰っていたとしてもおかしくはない、枋頭の役の桓温もそうだったと聞き及んでいる、という答えであった。
捕虜たちに確認すると、確かに桓沖は車列にいたという。
「この慕容垂が討ち損じるとは……。」
枋頭での支離滅裂な追撃を再現するつもりなど毛頭ない。あくまで苻堅に少しでも寄与できるよう蛮勇を奮ったに過ぎない。
それでも、手元からするりと抜け落ちた魚は決して小さくはない。この拙攻が戦役全体の帰趨を決めてしまうやもしれぬと思い始めると、気が気ではなかった。
(あの慕容垂が表情をここまで曇らせるとは)石越は余りにもらしからぬ慕容垂の態度に違和感を覚えつつも、江陵への進軍を催促することにした。
桓沖と面会した張玄之は絶句した。
輿に担がれた桓沖は歩ける状態になく、息も絶え絶えと言ってよい有様であった。
(今日明日の命ではないのか…)張玄之は足元が崩れ落ちたかのように平衡感覚を失っていた。衆人環視のなかでなければ間違いなく嘔吐していただろう。
(終わった……晋朝の命数もついに尽き果てたか)
張玄之の顔色は蒼白を超えて土気色となっていた。
桓沖に侍る馮該の表情は、それでもなお闘志に満ち溢れていた。戦場での場数が違う。桓沖がこの程度の負傷で死ぬとは微塵も認識していない。荊州の兵の誰もが同じ気持ちであった。
桓沖の発声はこの上なく明快なものであった。
「このような醜態、謝衛軍〔※謝安〕が聞いたらどのように吹聴することやら─堪ったものではないな。」
「だが、氐帥〔※苻秦の蔑称〕の主力は荊州には向かわん。間違いなく建康を狙っておる……衛軍が恐れおののく様が目に浮かぶではないか、張左衛。」
両足があらぬ方向にひしゃげ、片腕が千切れかけてる人間がここまで饒舌に喋るとは到底信じられなかった。桓沖が矢継ぎ早に張玄之にこれからの構想を披露した。
─上明の地で籠城態勢に入り、秦軍を吸引できるだけ吸引し減殺を図る。
─荊州兵の一部は襄陽から上明までの間に埋伏しており、荊州正面は一年以上秦軍の南下を遅滞することは可能である。
─守勢となるので、機動的に運用する精兵はそこまで多くなくても構わない。一部を建康の防衛に派遣することも一案である。
(この大怪我で一年も生きるつもりなのか、この御仁は)想像力がまったく追いつかない。
「張左衛、枋頭では敵中に孤立し痴態をさらした桓沖がようやく死に場所を得たのだ。」
「張悌の覚悟に倣うよう、謝衛軍にくぎを刺しておけ。」
張玄之は桓沖の気魄に気圧されつつも、恭しく拝礼した。
いつの間にか、精神も平常を取り戻していたのが分かった。
半死人に生者が鼓舞されることの不可思議さに自然と笑みがこぼれた。
石越の南渡の提案を受け、しばらく考え込んでいた慕容垂であったが、すぐさま却下し、新たな命令を下した。
「我が軍はこれより武昌を目指して前進する。江陵上明は姚龍驤に委ねる。」
石越は、慕容垂が苻堅の構想に追随していることを改めて思い知らされた。この鮮卑だけが苻堅とともにある─その事実に内心嫉妬し、それ以上に畏怖した。
苻堅がその主作戦軸を豫州に定めていることは、政権首脳部だけが知らされている機密事項であったが、慕容垂はそれをお膳立てするために、荊州の掃討よりも豫州の晋軍の意識を武昌に引きつけることを優先したのである。
流動的な状況の中で、やがて晋秦両国の関心が淮肥の地へと収斂していくことになる。
──決戦の時は、もうすぐそこまで迫っていた。
2020-05-02 15:39:58 +0000