ある日、同じ芸談協会に所属する「ほくほく亭いも太郎」兄さんに呼ばれた。
浅草にある喫茶店、遠くには雷門の文字が見える。
このご時世人は少なく、時折歩く人もそそくさと目的の場所に急いでいるように見えた。
私もマスクをつけて喫茶店に着き、入り口の前の消毒液をつけて手にこすりつける。
以前、張り扇にたっぷりかけて高座に上がったら、湿ってしまいポンポンとした音しか出なくて途中から喋るだけにしたな。
修羅場(ひらば)の場面で柏手で喋ったのは、後にも先にもあの時だけになるだろう。
喫茶店に入るといつもの席にいも太郎兄さん。
いつもと変わらず血色の悪そうな顔、兄さんの血は何色なのか。
兄さんは落語家で真打、あの名人「ほくほく亭じゃがばたあ」の弟子である。
死神に取り憑かれたような見た目も相まってか、兄さんの演る「死神」や「藁人形」は絶品である。
絶品すぎて怖くて泣き出す子供や、今際の際かと気を失ったりするお年寄りもいるほど、兄さんの高座はスリリングである。
近くの寄席にお越しの際はぜひ聴いて下さい。
落ち着いた雰囲気の喫茶店で、兄さんと話す時はいつもココである。
そう言えば席もココだな、左には婦人の人形が置いてある。
兄さんは女性を演じるのも巧くて、どうしたら良いのですか?と以前聞いたっけ。
女が男に聞くのか、と言われたが兄さんは横の人形に向かって不気味な笑みを浮かべて、
「憧れの人になり切って喋るんだよお」
・・・なるほど。
「新しいネタを教わりに行こうとしているんだが、最近しくじったから師匠が怖くて怖くて、何かご機嫌をとろうと思うんだがどうしたら良いだろう」
「好きな食べ物を持って行けば良いんじゃないですか、私はおでん兄さんがもし怒ってたら、すぐにおでんを持って行きます」
「アイツ、おでん屋やってるのに人んちのおでん好きだよなあ」
「コンビニのおでんが無くなるというので、ものすごく悲しんでましたよ・・・、じゃがばたあ師匠は何がお好きなんですか?」
「あんパンかな、牛丼も好きだったっけ」
「服部伸師みたいですね」
「馬琴師のレコードで喋ってたやつか、持っていってみるか・・・」
芸に惚れ込んだ師匠に対する事だ、解決の方法が兄さん自身に見つからないわけはないだろう。
それでも私に相談するのは、相談というよりただ背中を押して欲しいのだと思っている。
「私からの贈り物です」と一言添えれば、兄さんの気まずさがもう少し晴れるのでは?と思ったが、それでは弟子からご機嫌伺いにはならないので、言うのを止めた。
気が重くてもやらなければならない事がある。
それはもちろん、兄さんが一番わかっているはずだ。
「ところで、何を教わるんですか?」
「御神酒徳利を、噺家になる前から圓生さんのをだったり聴いてたんだけれど、ある日師匠が独演会でやったのを客席で聴いて・・・」
煎茶を一口、息を軽く吸った兄さんが言った。
「あまりに素晴らしくて、震えて、それで師匠に弟子入りしようと思ったんだ」
「良いですねえ」
そこにドンと大きなパフェが置かれる。
アレ、何だこの密集感は!
私は小食なんだぞ。
頼んだのは気まぐれパフェ。
気まぐれで大盛りにしたのか・・・!?
キャンセルするわけにはいかないし、兄さんは芋羊羹を頼んでしまっている。
どうするどうする!
義太夫節の掛け声にどうする連ってあったな。
そんな事はこの場ではどうでも良い!
ど、どうしよう・・・。
「教わりに行く前に、師匠を怒らせてどうするんだよ俺・・・」
兄さん、まだ悩んでる。
私も、コイツをどうしようか悩んでる。
2020-04-29 07:55:25 +0000