上野辻講釈〜雪ぼたん〜

玉本秋人

辻講釈の合間に上野東照宮、
入り口横の牡丹園に。

八千代椿。
葉牡丹。
聖代。
篝火花。
花王。
島錦。

などなど、今がまさに見頃である。

そう言えば、去年は上野東照宮入り口にコーンがあったが、工事は終わったようだ。
五重塔では作業服のお兄さん達が忙しなく動いていた。

入り口の工事は何だったのか。
あるといえば、石階段。

割れた石階段、
「都合の悪い割れ方」だったのを
「都合の良い割れ方」に直したのだろうか。

うん、まくらには・・・やめておこう。

ヒラヒラ、雪が振り始める。
ヒラヒラと、雪振り始める。

ふと頭によぎった一文がある。

好雪片片別処に落ちず
(こうせつへんぺんべっしょにおちず)
署長は今 どちらに落ち着かれているでしょうか。
〜山本周五郎「寝ぼけ署長」より〜

舞台は上野ではないが、
雪の含んだ禅語(ぜんご)では、
小説「寝ぼけ署長」のラスト、
「私」のこの言葉が好きである。

空から降る雪のひとひらは、
一見何の意味もなく落ちているのではなく、朝になればその地は平らに、まんべんなく降り積もっている。

不規則に変化しつつも、実は規則性を持っているという。

雪も、人も。

私はこれからの人生、どこに向かい何のために生きていくのか。
迷いなく講談と言い切れるが、ふと自らを見つめ直すのは不安だからなのか。

不安という事を認めたとして、その不安を感じてどうしたいのか。
無駄だと思う先に何かあって、今私はある種の心の探求を図っているつもりなのか。

行き着く果ては恐怖だろうか。

そこまで考えてしまうのはただの言葉遊びで、
実は人生なんてこの雪のように落ち着く先に落ち着くと思っているのだろうか。

これくらいにしておこう。

牡丹園の通り道の間に間に、立て札があるかすれた字で何か句が書かれてある。
調べればわかるのかもしれないが、人の言葉が形を成し、時を経てもこうして残るというのは、言葉を仕事にする者としては一つの自信がある。

実は最近書かれたもので、「昔っぽい字」にしてあるだけだったら、今こうして思っている事は全てに無駄になるが・・・。

こんな事を考えるのも、夜に上野で独演会を控えるからである。
そうかそうか。

今日のお客はどんな人達だろう。
今日の体調はすこぶる良いが、だからこそ油断をしてはならない。
その場で思いついた面白いをただ出して、話を壊さないようにしなくては。

今日話すつもりの忠臣蔵。
「卍巴(まんじどもえ)と降る雪の・・・」
と始まる、雪の降る日の赤穂義士のお話。

不安というほどでもないが、こうして色々と考えていたのも高座が控えていたから。

ただそれだけなのかもしれない。

様々な気持ちを抱えつつも、高座に上がれば全ては目の前の人達に芸を披露するだけである。

やはりこの雪のように、私の身も心も落ち着く所に落ち着くのだろう。

出口には黄色いミツマタが匂いを放つ。

後ろ髪を引かれるような、少し名残惜しい思いである。

(舞波千景 2/10上野牡丹園での雑感)

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2020-03-04 02:03:10 +0000