「あの……」
祢子女は、地面に落ちた眼鏡ケースを拾い上げ、すれ違っていこうとする男に声をかけた。
「落としましたよ」
「これはどうも……おや」
男は眼鏡ケースを受け取りざまに、何かに気付いたかのように祢子女の顔を凝視した。
「ひょっとしてあなたは……八咲祢子女さんでは?」
「え?……ええ。そうですけど、何か?」
「やはりそうでしたか! こんなところでお目にかかれるとは光栄です。申し遅れましたが、私はこういう者です」
男は懐から名刺を取り出して、祢子女に手渡した。
「株式会社 動物愛護推進協会 代表取締役 久良知マリス……?」
「猫の保護活動と愛護教育に熱心なあなたのことは聞き及んでおりました。もしお時間がおありでしたら、この先のカフェでお茶でもしながらぜひ、お話をさせて頂きたいのですが」
「……」
この人物の名に聞き覚えがなければ、会社の名前にすら聞き覚えがない。
それでなくともまず、祢子女は、相手のどこか不気味な佇まいとその物腰、表情に、底知れぬ何かを感じ取って、何かひやりとした嫌な感触が胸ににじみ出るのを感じていた。
本来なら彼女は、素性のしれない怪しい相手に対しては警戒心が非常に強く、滅多なことでは気を許そうとしない用心深い性格である。
だが、彼の言う会社の活動内容への興味が、それを上回った。
結局、彼女は、マリスという名のその謎の人物の誘いに乗って、話を聞くことにした。
彼によると、この会社は動物愛護活動を事業として推進してビジネスにつなげ、その収益を持って日本各地で活動する動物愛護ボランティア団体に継続的な支援を差し伸べることを目的として設立された。知名度が低いのはまだ設立して間もないためだという。
祢子女は道端でであって間もないこの男の話をすっかり信用し、そして自分の仕事についても躊躇することなく話した。
そればかりが、話す必要もない自分の身の上やプライベートなことまですっかりしゃべってしまった。
……いや、しゃべらされたというべきか。
それを可能にするのが巧みな相手の話術だったということを、祢子女には知る由もなかったのである。
次第にマリスは度々祢子女の事務所に顔を出すようになった。すっかり懇意になってしまったようで、お茶を酌み交わしながら祢子女と雑談に花を咲かせている。当の祢子女もすっかり気を許している様子だ。
その様を苦々しく思っていたのは、祢子女の姪として育てられている猫又の少女しぐれであった
(なによあいつ……のらりくらりした態度で、イヤらしい顔してさ……。ずぇーったい、絶対、何か企んでるってば! どっから見ても気持ち悪いもん、あの顔……)
ただ独りしぐれだけは、マリスの怪しげな笑みの奥に隠された底意地を敏感に察知し、多大な不快感と警戒心を抱き、強い不安を隠せずにいたのだ。
それは元野良猫としての鋭い勘と動物的本能のなせる業だったのかもしれない。
彼が帰ってから祢子女にかけあい、必死で怪しいと訴えたが、
「彼は信用できる人だから大丈夫」その一点張りだった。
だが他に誰にも相談できなかった。そんなことを言っても仕事上の客だといわれてしまえばそれまでだ。それに祢子女と正式に彼氏として付き合っているあいつにだっていうわけにはいかない。個人的に男と会っているなどと話したら、浮気と誤解され、2人の仲をこじらせてしまうことにもなりかねない。しぐれは祢子女と懇意に付き合っているあの男のことは嫌いだったが、だからと言って、そんなことになっていいわけはないとわきまえている。
(いつもなら、そんな奴は絶対信用するなっていうのにどうして? ママ……)
そして、その不安は的中する。
ある日、祢子女が行方不明となった。
マリスに会うと言い残して。
しぐれはわかっていた。
あいつだ、あいつの仕業だ、あいつがママを……!
しぐれは急いである人へ電話を掛けた。
本当は大嫌いな奴だけど、もう助けてくれるのはあいつしかいない。
「……はい、こちらサガミ……」
「クロタ? ねえ、クロタでしょ?!」
「しぐれか……。どうしたんだ、そんなに慌てて」
電話の相手は、祢子女の正真正銘の恋人、クロタこと相模黒郎太だった。
恋人として常日頃から懇意にしている彼のことが気に入らなかった。
だが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。
「ママがッ……ママが危ないの!」
なりふり構わず、涙目になりながら、声を上ずらせてしぐれは訴えた。
「お願いクロタ!ママを……ママを助けてぇッ!!」
「何?! 一体何があったんだ、おいッ?!」
続く
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ことぶきさん(user/687555)のオリキャラ・久良知マリス(illust/77337976)と、うちとこのオリキャラ・八咲祢子女(illust/77130509)との共演イラスト。
キャラシートが発表された時から、うちの姐さんと絡ませたいなと思ってまして、以前に祢子女姐さんを描いて下さると共に「姉御肌でポニテなところがどストライクで大好き」「設定が独創的」と嬉しいお言葉を賜ったお礼も兼ねて、姐さんの姪っ子の猫又しぐれ(illust/78007832)、恋人のクロタ(illust/78123190 / illust/78583382)も加えてサスペンス調に小話しを描いてみました。
マリスは相手を翻弄して破滅させる巧みな話術の持ち主で、対立する陣営同士を引っ掻き回して破滅に導かれていく様を見るのが何よりも楽しみというサイコパス的な人物。
そんな彼があるとき、猫と意思疎通する異能力の持ち主である祢子女に興味を示して近づいた。
祢子女は普段の警戒心の強さも彼の巧みの話術の前になんなくいなされ、動物愛護の志を持つ者同士としてすっかり彼を信用してしまう。(もちろん、動物愛護ビジネス云々は祢子女を信用させるためのデタラメ)
そしてついに、その毒牙にかかる時が……。
姐さんの運命やいかに?!
2020-01-02 06:37:27 +0000