『蜀山人』(前)

玉本秋人

(上野講釈亭にて 
 出囃子 船漕ぎ娘)

(パンッと張り扇(はりおうぎ)を叩いて、深々とお辞儀)

「つ離れ」という言葉がありまして。

1つ、2つ、3つと数えて、つで数えられるのは9つ、10から10人と。お客様が沢山いらした時に使う言葉でございます。

前座がコッソリと舞台端、袖(そで)からお客の数を数える際に、
「師匠!早くも、つ離れしました!」
なんて言ったりしますね。

つ離れができない日は「どうも」と落ち込みたくもなりますけれど、却って人が少ない時には、いつも以上のモノを見せよう、意気込んだりなんてする。

「近き者説び(よろこび)、遠き者来る」と言いますから。
目の前のお客が、次にいらした時に別のお客を連れてくる。

それを知っていたせいか、師匠に対して「力の見せどころですね!」と言って叱られた前座がかつていましてね・・・。

わたくしです。

(パンパンッ)

とんちの名人といえば三人。
一休宗純(いっきゅうそうじゅん)、曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)、そして本日読みます蜀山人。

一休宗純は、
「正月は 冥土の旅の一里塚
目出度くもあり 目出度くもなし」
と詠んだ句があります。
割とひねくれた人で、正月なんかメデタくない!と、言ってしまうような方。
だから物事の見え方も他人とは違うのでしょうか。

曽呂利新左衛門は落語家の始祖と言われます。
初代は太閤秀吉の幇間(たいこ)持ち。
二世と書いてニセと読ます2代目は上方落語で一斉を風靡した方。

初代の辞世の句は、
「ご意向で 三千世界が手にいらば
極楽浄土を 我に賜る」
御人柄が現れておりますね。

江戸時代の末は、文化文政期の頃でございます。

近世文化が日の目を見、関東という新しい風土が生まれまして、それが中心地の江戸によって洗練されていった爛熟(らんじゅく)の時代。
果物も肉も、腐る寸前が一番美味いとされる。

姓は大田、名は直次郎。号を南畝(なんぽ)と言いまして、寛延は2年の、3月3日、桃の節句に御徒町の役人の元に生まれました大変目出度きお方。

いくつもの名前を持ちます方で、杏花園(きょうかえん)、巴人亭(はじんてい)、四方赤良(よものあから)、四方山人(よもさんじん)などなど。

19の頃に、寝惚先生と名乗り義文を出してその界隈で名を馳せていましたという事で。
天才は若いうちから頭角を現すものなんですね。歳をとって天才というのは、確かにあまり聞きません。

川端康成は「伊豆の踊子」を23、山本周五郎は17で小説を発表しております。
寝惚と聞くと、山本周五郎の寝ぼけ署長を思い出しますが、頭の切れる方は、普段はみんなああして眠たそうにしているものなのでしょうか。人物画の蜀山人もまるで寝起きのような表情をしております。

(パンパンッ)

世の中に蚊ほどうるさきものはなし
ぶんぶ(文武)といひて夜もねられず

これも夜寝られない時に考えたような気が致しますね。その勢いで田沼藩に捕らえられるという、おちおち寝言も言えない時代。

(パンッ)

蜀山人という名は、師匠平賀源内が風雷山人と名乗っていたので、四方山人(よもさんじん)。
そこにある時、中国、昔は唐(から)と言いまして、そちらの役人に
「唐人へ ここまでこいよ 天野原 三国一の富士が見たくば」
と、手紙を書きましたら、礼状の宛名に「蜀山人(しょくさんじん)」
と書いてあったのが由来とされております。

縦書きの四方山人の四方の字が、「蜀」に見えたので「蜀山人」と名乗りなさいとしてあり、こりゃ面白いと雅号に用いたのが始まりとされております。「明治のおもかげ」を書きました鶯亭金升(おうていきんしょう)も、「おうて いきんしゃい」から、ニ葉亭四迷(ふたばていしめい)も、「くたばってしまい」から来ましたしね。名前の由来を辿ると意外な成り立ちに出会えます。

(パンパンッ)

豪気な方で、当時の文句は
春のに、
 澄さんも 富士のつく間も一同に
 どっととわろう 

春の一国を
 千金ずつに締め上げて六万両の春の曙

夏のに、
 いかほどに 堪えてみてもホトトギス   鳴かねばならぬ村雨の空

秋のに、
もみじ咲く 菊やススキの本舞台  
まずは今日のこれ切りの秋

冬のに、
 雪降れば 炬燵やぐらに閉じこもり
 打って出べき勢いは無し

紀州の殿様に呼ばれ、歌に五色を入れ詠めと言われ、

色白く 羽織は黒く裏赤く
ご紋は葵(青)紀伊(黄)の殿様

借りて着(黄)る 羽織は黒し裏白し
ここは赤坂行は青山

を詠んだ。

蜀山人先生、お酒が好きな方で家来はいつも大変な目にあっていましたそうで。

ある夜、履き物を履こうとしたら、
その上に短冊が置いてあった。

いつ来ても 夜ふけてよもの長話
あからさまには申されもせず

本郷に差し掛かって来ますと、加賀様水戸様のご家来がいまして、

小石川 本郷を指して鳩が二羽
ミトッポにカナッポ

武士が蜀山人先生とぶつかった。足がもつれた蜀山人先生、水溜まりに飛び込みそのまま寝込んでしまった。

家来が慌てて屋敷に連れ戻し、先生に禁酒の願いを持ち出しますと、先生は紙に、

黒金の門よりカタキ我が禁酒
ならば手柄に破れ朝比奈
(朝比奈三郎の門破りのもじり)

としたためて神棚へと上げます。

そこに馴染みの魚屋さんが鰹はどうですかと来ましたが、禁酒宣言をした先生、鰹だけ食べても美味くないからと断った。

しかし、魚屋さんに「酒が飲めて人生ですよ」と言われ、先生あっさり禁酒をやめてまた飲み始めた。

鎌倉の海より捕れし初鰹 みな武蔵野の腹に入れ

家来が来て先生約束したじゃありませんかと言われますと、神棚に上げた誓いの紙は書き直されておりました。

家来が読み直しますと

我が禁酒 破れ衣になりにけり
やれツイでくれサシてくれ

こういった具合で例外を沢山作りまして、春は桜、夏は星、秋は満月紅葉、冬は雪を肴に酒を飲む。
友がいればいつもより飲み、二日酔いの時も調子を整えばと長薬代わりに飲む。

生憎わたくしは未成年ですが、酒はそこまで飲みたくなるものなのでしょうか?以前タバコをお吸いになる寄せの案内の方に「タバコってそんなに良いものなのですか?」とお聞きしたら、
「良いかというより、吸わないと落ち着かないんだ」
と返された事があります。
お酒も同じような気がしますけどねえ、講釈を演るにあたり、やはり成人したら芸の勉強のために飲むつもりですが、良く聞くあの言葉。

「酒は飲んでも飲まれるな」

蜀山人先生の生き様を、反面教師とする事で次にいきたいと思います。

(パンパンッ)

 

#舞波千景#講談#講釈#蜀山人#illustration#drawing

2019-06-19 10:42:48 +0000