田中 謙助(たなか けんすけ)
文政11年~ 文久2年4月24日
1828年~1862年5月22日
幕末の薩摩藩士。
父は池田氏。名は盛明。別称・直之進。
鹿児島城下で誕生。
田中氏の養子に入いる。
幼時より学問を好み、また古示現流剣術や砲術を修めた。
藩政では造士館訓導や江戸藩邸中小姓を務めている。
後に有馬新七らと九条尚忠・酒井忠義らの襲撃を謀って大坂を脱走し、上洛して京都寺田屋に入った。
しかし島津久光の派遣した鎮撫使と激論となり、
最後に謙助が「もう論ずることはない」と断じたために鎮撫使の道島五郎兵衛が「上意」と眉間を斬られて昏倒した。
これが寺田屋事件の発端となった。
その後蘇生するが、翌日に伏見の藩邸で自害を命じられた。
贈従四位。墓所は京都市伏見区の大黒寺。
2018-06-16 14:53:44 +0000