カエサル「やはり行くのかね?ラビエヌス」
ラビエヌス「元老院とポンペイウス様が私を必要としているでしょうから」
カエサル「そうか……私の右腕、最高の軍団指揮官をこうもあっさり失うとは残念だ」
ラビエヌス「カエサル、誰も貴方の右腕を担う事は出来ないでしょう。例えばアントニウスは大した男ですが、その欠点もまた大したものです。それに永遠ならざる我らに別れはつきものです。クラッススも貴方の家族であったポンペイウス様も去っていく」
カエサル「……違いない、行くが良いさ。私が何より自身の自由を重んじる様に君も自由であるべきだからな」
ラビエヌス「とはいえ、いつか今ここで私を始末しておくべきだったと後悔する日が来るかもしれませんよ。寛容にして慈悲深きカエサル」
カエサル「慈悲と寛容!ガリアとブリタンニアとゲルマニアで私が創造した屍山血河を知る君にしか言えぬ皮肉だな。さらに私はアウクトリタス(権威)とディグニタス(威厳)を懸けて祖国と同胞を死と混沌の淵に投じようとしている」
ラビエヌス「比較的、といったところですな。どれだけ過去に遡ろうと、あるいは何百年先であろうと遠征に発つ者は誰であれ、殺戮と破壊を振り撒く事に変わりないでしょう。いや、戦場ですらないローマの都に粛清の嵐が吹き荒れた事もありましたな。それでもなお貴方は幾許かの寛容さを示す事もあった、同じくらい残酷であったように……そして今まさに私を解き放とうとしている」
カエサル「これは信条の問題でもある。私はそれが好みだからそうするのだ。それが先々で私の首を絞める事もあれば役に立つ事もある。君を自由にする事は私のフィデス(信義)に適う事であり、信義に忠実である事が私の望みだ。故にその結果何が起ころうと私はそれを粛々と受け止めて次の手を考えるだろうさ」
ラビエヌス「初めて会った時から貴方はいつもそうだ……その前途に神々の助力と幸運があらんことを」
カエサル「行く末を思えば奇妙な挨拶だが、君にも神々の祝福を。この地上で私ほど君の実力を認めている者はいない事を忘れないで欲しい。それほどの者の下を去るのだから君の行く手にも想像を絶するほどの成功が待っていなければ釣り合いが取れないだろう。お別れだ戦友よ、またいつか会うこともあるだろう……出来れば避けたいがね」
ラビエヌス「我々が再会する場所の様相など、これまでもこれからも唯一つでしょうな。例え味方であれ、敵であれ……」
カエサル「先の事は神々にしか分からんがそうならないことを願っている。道中の安全は勿論、荷物に1セステルティウスの損害も無きよう家門の名に懸けて私が輸送に責任を持つ。これで話は終わりだな。さらばだティトゥス・ラビエヌス」
ラビエヌス「ご配慮に感謝致します。それではこれにて、余人に代え難き我が最高司令官ガイウス・ユリウス・カエサル!」
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前58年からガリア戦争においてカエサル配下の最も優秀なレガトゥス(総督代理、軍団指揮官、軍団長)として忠実に付き従い、死地に同道し、アレシアの戦いにおけるそれの様に危機においても助け合ってきたティトゥス・ラビエヌスが前49年に去る場面をイメージしました。別れの前に幾らか話をしたようですが記録が無い(あるいは散逸した)為、その内容は不明で上の会話は捏造です。
ラビエヌスはカエサルの宣伝の性質を持つガリア戦記の中でわざわざ名前が記された将であり、カエサル不在時に軍の指揮や統治を預かるほど認められた人物でした。数々の戦いにおいてその都度鮮やかな用兵と戦術を披露した勝利に欠かせない熟練の指揮官であり、特に騎兵の扱いに優れていたようです。長年片腕の様に活躍してきたラビエヌスが配下を抜けて、決定的な対立へと向かいつつあった元老院とポンペイウスの派閥へ去るにあたり、カエサルは何の妨害もせず、その荷物も丁寧に送ったそうで。
この一件はカエサルの一面が垣間見える劇的・物語的な逸話として非常に印象的である一方で、古代ローマにおける主従や社会の在り様の断片が感じ取れて面白いですね。カエサルの役に立ち、引き立てられ、その配下で大活躍したラビエヌスが最も必要な時に去る。カエサルにしてみればまさに痛打であり、対立勢力を利する状況である訳です。
決別の理由については明確な記録が無く、ラビエヌスはさらなる富と名声の為、あるいは勝ち馬に乗った(元老院の権威、ポンペイウスの名声、莫大な財力と軍事力を鑑みて)等、後世の人々は諸説記しております。明らかになっている事から推察される説の一つとして、ラビエヌスはその出身から元々ポンペイウスとの関係が深かったというものが挙げられます(裏切りではなく古巣への帰還)。古代ローマでは国家や公職の上下関係とは別に有力者たるパトロヌス(父を意味するパテルから派生した言葉、パトロンの語源)とその庇護を受けるクリエンテス(意味は異なるがクライアントの語源。経済的支援、政治的庇護を受け、様々な便宜を図ってもらうかわりに前者へ政治的支援や協力を誓う)という相互扶助関係に基づく利害を共有する集団が伝統的に存在し、政治経済、個人の出世や没落に大役を果たしておりました。カエサルと知り合う前からピケヌムに住んでいたラビエヌスの一族と同地域の大地主であるポンペイウスの一族はそうした社会的繋がりを持っていたそうです。また彼自身の軍歴や出世においてもポンペイウス一門の恩恵は無視する事が出来ません。
もう一つの理由としては機能不全に陥りつつあるとはいえ、ローマの行く末を左右する正統性はあくまで元老院を中心とした勢力にあると考えていた為であるかもしれません。カエサルがどれほど強力で才能に溢れていたとしてもローマの政治の舵取りをするのは現行の元老院だと。それ以外の何者かが頭角を現して采配を振るうのはローマの政治の本義に悖ると。それもまた当時のローマ人としては自然な感覚だったのかもしれません。我々は共和政が混乱のなか事実上崩壊し、内乱の末にアウグストゥスへ権威と権力が集中し、元首政への道が築かれるという経過を知っているので当時の人々の情勢に対する所感や展望を理解するのは中々難しいですが。
カエサルと対立する軍勢に加わったラビエヌスはファルサルス、タプスス、ムンダの戦い等で激戦を繰り広げ、ギリシア、アフリカ、ヒスパニアと地中海世界狭しとばかりに転戦します。彼は最後まで降伏する事無くカエサルと戦い、その命を脅かし続け、そしてムンダの戦いで戦死するのですが、仮に生きたまま捕縛された場合、それまでしばしば敵対者を解放したカエサル(勿論危険な指導者を処刑する事も多々あった)がどの様な言葉をかけ、どう処したか、興味深いです。HBOのROME等でもカエサルは活き活きと描かれておりますが、彼の側近、宿敵なども掘り下げて見てみたいものです。
*ポンペイウスは死別するまでカエサルの娘ユリアを妻としていた(つまり年下のカエサルがポンペイウスの義父)結構な年の差婚(古代では珍しくないとはいえ)だがポンペイウスとユリアは相思相愛だったようで。
*数々の戦いをカエサルは勝利の為に戦ったと述べる一方でムンダの戦いについては生存の為の戦いだったと表現し、その熾烈さを吐露している。
2018-06-13 14:52:31 +0000