「この日本を守るために、私に出来る精一杯のことをするだけ。ただ、それだけです」
イメージモデルは日本の「八九式中戦車 イ号(甲)/はちきゅうしきちゅうせんしゃ イごうこう」
「Warthunder」では軽戦車とされている。
大日本帝國陸軍初の国産戦車である試製一号戦車が1927年に完成したが、戦闘全備重量18tという大重量の重戦車となってしまったため、陸軍は「軽戦車」「重戦車」のカテゴリーに於いて新たに国産の「軽戦車」開発に乗り出す。
1929年4月、試作車が完成。予定通り軽戦車(10t以内)の9.8tに収まった車輌で各種試験が開始される。その後に量産されるにあたって運用試験のフィードバックから改修が度々行われ、さらに部隊配備後も不具合の改修が幾度となく繰り返された結果、既定の10tを超える11.8tにまで重量が増加してしまった。
また、本車輌よりもさらに軽量な九五式軽戦車が開発されたため、陸軍は新たに「中戦車」カテゴリーを設けて本車輌をその1号と改定(再分類)し、「八九式中戦車」という制式名称が与えられた。
1931年、満州事変において初陣。同時に配備されていたフランス製ルノー乙型戦車(ルノーNC27戦車)ともに運用され国産戦車の性能が試されたが、実戦に於いて本車輌が上であると評価を受けた。その後、ノモンハン事件、日華事変と中国大陸で歴戦し、日本戦車部隊の活躍はマスコミにも注目され「鉄牛部隊」後に「鉄獅子部隊(「牛」という鈍重なイメージを戦車兵が嫌ったため改変された)」と呼ばれ、大いに持て囃された。
1941年、太平洋戦争開戦時にはすでに旧式化し後継の九七式中戦車(チハ)へと更新が進んでいたが、フィリピン攻略戦や中国大陸での戦線で少数ながら運用され、末期の1945年ルソン島防衛、沖縄戦の際にも機甲戦力の不足から引退済みの車輌までかき集められ投入されている。
2017-08-12 06:37:44 +0000