<oro 金>
自分が生まれてすぐに亡くなったという、顔も覚えていない母親だろうか。誰かに耳元で囁かれた様な気がする。
『あなたが叶えるべき夢と、夢よりも確かなものが皆、あなたの目覚めを待っているわ』
寝台の脇から寝息が聞こえる。本来ならば眠る必要のない機械の身体を持つ、小さな副官ブルーベルだった。半壊したはずのボディも修理されたらしい。妹のような孫娘のようなこの相棒の青い髪を撫でてやる。
60年の年月をかけて作り上げた庭の薫りが鼻をくすぐる。
帰ってきたのか。懐かしい揺籠に。
丸い天頂から光が差し込んでいる。そしてモーターの駆動音に似た音はメディックガールのものだ。近くを歩いているのだろう。どうやらあの『帰還』を共に耐え抜いたらしい。馴染みの社長が修理してくれたのだろう。お礼状を書かねば。向日葵の育て方を教えた可愛い一番弟子は元気だろうか。
耳元で静かに優しい音色がする。横に視線を投げると、オルゴールの台座の上に乗った小さな愛機の像がくるくると踊るように回っていた。一度かの国に農業指導に行ったときに聞いた民謡だ。
意思を持たないはずの機体だが、ほんのひとときだけ一心同体になったガラテイア。戦場ではなく、彼女の生み出された国のよく実った畑を見せてやりたい。まだ雪山で眠っているのなら、再度迎えに行かなければ。自分が乗ることができるのは赫く輝くあの淑女だけなのだから。
それにしても自分は一体どのくらい眠り続けたのだろう。皆目検討もつかない。柔らかい雪が何十メートルも積もる極北の山中の座標を、最後の力を振り絞ってコクピット内で入力したことを思い出す。その後、雪の中からこうして助けだされたのだろう。
侵略者として勤めていた頃の環境調査のデータが、侵略者と戦う義勇軍に身を投じた自分の命を救うことになるとは。
鉄の肺、石の心臓、神々の遺産、最先端の医療技術に設備、天才的な施術。守る者、侵略する者の垣根を越えて組成され蘇生した身体。
それに相応しいことを成せただろうか。何も成せないまま目が覚めるくらいなら、永遠に眠り続けるのも悪くない。
きっと心の何処かで自分はそう考えていたのだろう。
「おはようブルーベル。ただいまアテナ。君には我が儘ばかりで、本当にすまない。やっと、帰ってこれた。アテナ、君の髪は随分と伸びたようだけど、僕は一体どのくらい寝てたのかな……」
自分達にとってかけがえのない、たったひとりの『姉』のような、自分達よりも遥かに永い年月を生きてきた不思議な女性、アテネゲイアの手元から、収穫したばかりの優しい林檎の香りがする。
甘く、滋養深く、希望や生命そのものに味があるとすれば、きっと林檎のような味なのだろう。夢に香りがあるのなら、それもまた林檎のような香りなのかもしれない。
そしてその夢の香りは、プラントガンナーの中央に据えられた机の引き出しの奥に秘めたままの、まだ投函されていない『あの手紙』からも香るのだろうか。
アルベルト・サトー、星の海からやってきた植物学者が、隅々まで緑に満ちたこの館の天井を仰いで、言った。
「夢見がちな男は、夢を叶えるまでは死なないって、誰かに言われた気がするよ」
穏やかな老人の様に家族を愛し、情熱的な青年の様に友を愛し、思春期の少年の様に夢を愛する男。全く、どうしようもなく矛盾に満ちて、身勝手で、夢見がちで、困った人だ。だが、この男は残念ながら「本当は」とことんそういう男なのだ。少しばかり含蓄のある笑みを口の端に浮かべ、長い髪を揺らしながらアテネゲイアが微笑んだ。
<verde 緑>
貴女は私にとっての故郷を二度も救ってくれたのです。
自分達の戦いは、決して無為ではなかった。
大事な誰かの大事な場所を守ることができたのだ。それを、誰かの口から聞ける日が来るとは。
ハンス・ボーデンシャッツ。肩の上に愛らしいアイドルを乗せた、生真面目な壮年のジャーナリスト。一度は波瀾万丈のうちに不運にも閉じたその生涯ゆえに、新しく芽生えた熱い心を持ち合わせた男。
同じ星からこの楽園に辿り着き、そして燃え上がるテレビ局内で出会ってから、数ヶ月も経たぬ間にすっかり意気投合したこの友が、告げた。
自分達の戦いが、ゆっくりと幕を下ろしていく。
そう、これは『千秋楽』の終演のアナウンス。新しい日々の、新しい物語の開幕を告げる声だ。かつての主人、揺籠で慈しむように育てたあの『少年』に、この声は届くだろうか。心のなかで思わず祈る。私達の戦いは終わったのよ。どうか、目覚めることを恐れないで、と。
これからも貴女の友の一人として共に道を歩みたい
これからは、大切な人、大切な人達と共に、大切な場所を自由に歩いていける。そんな日々に、そして『共に歩みたい』という言葉に、自分たちは一体どれだけ長い間憧れながら生きてきたのだろう。
「……どこへでも、お供するわ。歩くのだけは、とても得意ですもの」
自分にとって何よりも美しい言葉、心に秘め続けたたったひとつの願い。それが叶った時自分はどう答えるのか、考えていなかったはずはないのに。
諦めたわけではないけれど、見果てぬ夢、遥か彼方遠い未来の話。きっと心の何処かで自分はそう考えていたのだろう。
「私はここで、誰もが憩う庭でありたい。けれど……」
珍しく、何故か言葉が見当たらない。唇だけが何度も何度も空回りする。ふとどこからか、自分のよく知る懐かしい声が聞こえた気がした。
『素敵な『花』も咲いている場所だろう。良い『旅』を』
青い花が、何かを囁く様に男の襟元で揺れる。揺るぎない誼の証であり、追い求めた夢の果てに咲く花の色。
「………あなたとなら」
自らの魂を自らの力で輝かせる者達の放つ、種々様々な光に満ちた、優しさと混沌が渾然と住まう場所。辿り着いた夢の果てに存在した、無限で自由な旅路。
目の端から何かが零れる。
泣くという機能は備わっていないはずなので、きっと花弁か何かだろう。
それにしても、今の自分がもしも10代の人間の乙女だったら、このまま目の前の男の胸に飛び込んで心ゆくまで泣き続けていたのではなかろうか。彼が一体どんな顔をするのか、見てみたい気もするが、それを目のあたりにするのも気恥ずかしい気がしてしまう。
この何とも形容しがたい、面映ゆく、それでいて未知の花が開花する瞬間に立ち会った時のような気持ちは何だろう。これから共に歩むであろうこの楽園の友人達に、さっそく聞いてみるべきかしら。
フロウライン・プラントガンナー、数多もの木々や花々と共に数多もの星々を渡りながら生きてきた『環境調査機』、今では『樹婦人』とも呼ばれる女が、涙と微笑みを同じ数だけ零しながら、静かに膝を折ると目の前の男の手を取った。
「あなたとなら、どこへでも行ける気がするわ」
遠からぬいつの日か、皆と共に愉しく歩む足跡のうちから『もうひとつ』、思いの外甘く、芳醇で、少しばかりの秘密と限りない歓びに満ちた果実が実る日が来る。その果実の種子はきっと、こうして直に重ねた掌の中から生まれてくるのだろう。そんな予感を胸に抱きながら。
《fin.》
2017-07-14 17:08:44 +0000