清河八郎と坂本龍馬の出稽古のシーンです。
二人とも北辰一刀流に学んだ剣士で、八郎が竜馬の先輩に当たります。
この坂本竜馬は、同じ北辰一刀流の達人です。同門という間柄であり、八郎が先輩に当たるわけですが、双方面識があり、竜馬は『虎尾の会』にもその名を連ねています。
八郎は嘉永4年(1851年)、22歳の時に幕末の剣聖と呼ばれた千葉周作道場に入門。
竜馬は嘉永6年(1853年)、19歳の時に千葉定吉(周作の弟)道場に入門。
師は違いましたが、同じ北辰一刀流、その剣技は2人とも一流であったと言われています。
八郎が『北辰一刀流中目録免許』を受けた年ということなので、安政5年(1858年)のことになるでしょうか、八郎29歳、竜馬24歳の時のことです。同年、竜馬は『北辰一刀流長刀兵法目録』一巻を伝授されています。
この年、親善なのか稽古なのかは定かではありませんが、八郎と竜馬の試合の記録が残っているのだそうです。
結果、八郎の圧勝。年齢と経験の差はあるものの、一片の隙も無い八郎に圧され、竜馬は八郎から1本も取ることが出来なかったそうです。竜馬は、この時の八郎の姿を、『巨岩』『巨虎』と比喩し敬意を払っています。2人とも当時としては大柄な人物でしたが、それでも、竜馬は八郎の剣威を絶賛し、八郎もまた、その屈託のない竜馬の人柄に敬意を表し、倒れた竜馬に手を差し伸べたと言うことです。
2人の関係は、当時の記録が克明に残っていないため不明な部分は多々ありますが、やり方は違えども、『日本の将来』のために国事に奔走したという点ではシンクロする部分があります。新しい時代を見ずに2人とも暗殺されてしまいますが、
八郎が『明治維新の魁』となり、竜馬は『明治維新の創造主』的存在だったと言えます。
2人の国事奔走は、激動の時代の波に儚く消えていった多くの同朋たちの志を背負っていたからこそであり、『大和魂』を今なお、私たちに教えてくれているような気がします。
2017-07-05 08:30:24 +0000