織田信忠の婚約者、武田松姫です。
生涯 信忠の婚約者でありたいと 本能寺で信忠討ち死にを聞き 信松尼 と名乗り尼となりました。
信松尼(しんしょうに)
永禄4年(1561年)~ 元和2年4月16日(1616年5月31日)
武田信玄の六女。
母は側室の油川氏。
同母の兄弟姉妹には仁科盛信(五郎)、葛山信貞、真理姫(木曾義昌室)、菊姫(上杉景勝室)らがいる。
永禄10年(1567年)12月に武田・織田同盟の補強として、7歳の松姫と信長の嫡男・織田信忠(11歳)との婚約が成立し以後 文通で愛を育んだと言う。
元亀3年(1572年)、信玄が三河・遠江方面への大規模な侵攻を開始すると、織田氏の同盟国である徳川家康との間で三方ヶ原の戦いが起こり、
同盟関係にある信長は徳川方に援軍を送ったことから武田・織田両家は手切れとなり、松姫との婚約も解消されたが、松姫は信忠を思い続け信忠も松姫を思い続けたという。
天正元年(1573年)に信玄が死去し、異母兄の勝頼が家督を継承すると、松姫は兄の仁科盛信の庇護の高遠城(長野県伊那市)の館に移る。
天正10年(1582年)には織田・徳川連合による甲斐侵攻が開始、兄の盛信を高遠城において、勝頼は新府城(山梨県韮崎市)から天目山へ逃れともに自刃、武田一族は滅亡。
盛信により新府城へ逃がされた松姫は勝頼一行と別行動を取り、盛信の娘である小督姫ら3人の姫を連れ、相武国境の案下峠を越えて、武蔵国多摩郡恩方(現・東京都八王子市)へ向かい、金照庵(現・八王子市上恩方町)に入る。
この織田の武田侵攻の時に信忠は必死に松姫を探したと言われる。
武田氏の滅亡後、八王子に落ち延びていた松姫のもとに織田信忠から迎えの使者が訪れる。
6月2日、松姫が信忠に会いに行く道中にて(異説あり)本能寺の変が勃発し、信忠は二条御所で明智光秀を迎え討ち、自刃。
同年秋、22歳で心源院(現・八王子市下恩方町)に移り、出家して信松尼と称し、武田一族とともに信忠の冥福を祈る生活に入る。
信松院 の名乗りは
信忠の 「信」松姫の「松」の一字ずつとも。
天正18年(1590年)八王子・御所水(現・八王子市台町)のに移り住み、尼としての生活の傍ら、寺子屋で近所の子供たちに読み書きを教えたりの生活を送る。
また異母姉の見性尼(見性院)と共に徳川秀忠の ご落胤 幸松 のちの会津藩初代藩主・保科正之を誕生後に預かり育てている。
彼女のは武田家の旧臣の多くからなる八王子千人同心たちの心の支えともなったという。
幸松が保科の養子に行く際に 警護したのも
八王子千人同心と言われる。
後に 会津藩主・松平容保が 新選組となる浪士を預かったのも その中に八王子千人同心出身の者がいた事と無縁ではない様に思える。
松姫 信松院は元和2年(1616年)に死去、享年56。
彼女の草庵は現在の信松院。
2017-04-29 08:31:32 +0000