「ここだよ、お前の来たがってた三勇士像は」
「これが…上海事変の英雄…敬礼!」
「…なぁ、お前は昔から頭が固いし、突っ走ることしか知らないがね、犠牲を前提にした命令ってのはお前なら出せるのか?」
「彼らは自ら進んで散ったんだぞ、美しく花と散ったんだ」
「かもね、だけどだ、いつか指揮官になる身として、お前は部下にそう命令できるのか?お前ならそう命令されたいか?醜く生き残って戦い続ける覚悟ってのも勇気だろうよ」
「…お前とは気が合わないな」
「だからこそ、お前みたいなのには僕みたいなやつの意見が必要なんだ」
「…ふん」
昭和7年の第一次上海事変で、国民党軍との戦闘に於いて敵陣突破のため鉄条網を爆弾で吹き飛ばす作戦が行われ、その作戦中決死隊が捨て身の攻撃で鉄条網を破壊し、敵陣突破に成功したというニュースが報道を通じて全国に流れました。
陸軍はこの作戦で戦死した3人に爆弾三勇士と命名、大阪毎日と東京日日新聞は「爆弾三勇士」と、大阪・東京朝日新聞は「肉弾三勇士」という名前で大々的に軍国美談として煽りにあおり、日本中で英雄として知られました。この話は映画や芝居、漫画や広告にまでつかわれ、各新聞社は軍歌の一般公募を行い音楽もたくさん作られました。
有名な「廟行鎮の敵の陣 我の友隊すでに攻む おりから凍る如月の 二十二日の午前五時」や、山田幸作作曲の「戦友の屍をこえて 突撃す 御国の為に…」という版、かの与謝野鉄幹が作詞したものもあります。
しかし実際の3人の死因は導火線が短すぎたための作戦中の事故であったとされ、彼らの他にも同時攻撃した隊員の多くは生還していますし、他にも戦死者は出ていました。彼らは軍部の主導で英雄とされて、戦後忘れられたのでした。
東京の愛宕にある青松寺には三人をかたどった像が建立され、名所となっていました。現在は像は壊され、境内に一人分の像だけが寂しく残っています。
以前描いた大陸帰りのOnomichiさんの絵の師illust/58181178、あの方も子供のころ「爆弾三勇士に続け!」と教育されてたねぇ…と仰っていました、そういえば
2016-12-05 09:59:29 +0000