ローマ軍の物語XXⅡ“アルスの継承”

Legionarius
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我が恐るべき隊長、死ぬまで百人隊長を止めるつもりはないと豪語していたケリアリスが不運にも足を負傷した。
軍団は歩けない、動けない兵隊に用はない。隊長が空席となったが、いつまでも隊長代理が座を占める訳にはいかない。
問題は誰が穴を埋めるか、だ。

俺は軍団御用達の商人に華麗なる転身を遂げたクイントゥスほど要領が良くないし、騎兵を投槍の一撃で落馬させたティトゥスほど強肩にも恵まれなかった。アウルスやサルウィウスの様に剣で死体の山を築けるほど上等な戦士でも、後退中に負傷した戦友を担いで救出し、そして死んだマルクスほど優しく勇敢でもない上に、祖国と軍団の為にいつでも命を差し出す覚悟のガイウスやルキウスほど情熱と愛国心に溢れた男でもなかった。

ケリアリス隊長はいつも俺の事を物事を一歩離れた所から見る、高みの見物気取りの気に食わない野郎だと評していた。一方で彼によれば指揮官は果敢に振舞わねばならぬが、周りが見えなくなる様な猪野郎では困る、という事だった。例え他の全員が前方の敵に気を取られても、側面と背後を思い出す奴が一人は必要だという訳だ。そして副官となった時と同様、俺のギリシア語は以前より大分マシになっていた。
意味が通じないだろうとギリシア語で俺達の悪口を囁く連中を睨みつけてやれるくらいには。

だからケリアリスは苦虫でも噛み潰した様な顔をして俺を後任に推薦したのだろう。とりあえず本件については好意的評価だったと受け取っておこう。だが、弟や妹の面倒すら持て余していた俺が80人を見るのは適当と言えるだろうか。副官、つまり隊長代理と隊長は似ているが同じではない、責任も任務も。思案する俺を部屋に呼び出した隊長は他の候補を挙げて、そいつらが指揮官になったら隊はどうなると思う、と尋ねた。俺は候補達、兵隊としては申し分無い同僚達を思い浮かべた。ケリアリスは口を開かず椅子の背もたれに身を預け、静かに俺の目を見据えて答えが捻り出されるのを待っていた。比類なき百人隊長はいつもの様に命令するのではなく、俺の意見と考えを待っていた。上意下達の軍団では珍しい事だ。

結局、別の連中に任せるのは幾分危ういように思えた。目の前の敵を殺す兵隊とそれを束ねる将校に必要な資質は同じではない。それで俺達の話は終わりだった。敬礼して退室しようとした俺を呼び止めたケリアリスは痛む足を擦りながらニヤリと笑い、愛用の職丈を持っていくよう指し示した。俺は最初から最後までその掌の上で転がされていたという訳だ。

こうして俺は入隊から20年目に底辺の平民には望外の出世である百人隊長に選任され、さらに10年を過ごした。そして兄弟の統率すら覚束なかった俺は6個百人隊、約500人の軍団兵からなる一個大隊(80人×6個、但し第一大隊は定員2倍)の指揮官に任命された。

中の人間が入れ替わろうと第Ⅵ軍団は変わらない。俺達は訓練を繰り返し、整列も出来ない新兵がいればローマ軍団魂を叩き込んだ。ダキアの戦いに向けて訓練に明け暮れていた頃を思い返せば、自分がケリアリスと同じ様に考え、同じ様に振る舞っているのが我ながらおかしかった。人は毎日少しずつ変わり、ある時ふと過去を振り返って初めて自分の変化に気付くのかもしれない。かつてのケリアリスが何を考えていたか、まるで手に取るかの様に分かる気がした。それは彼が憑依したかの様だった。

俺は“作法”を知らぬ新米の間抜けに足を引っ張られて、折角正式な夫婦になったアスパシアを未亡人にするつもりは無かったし、よりにもよってローマが史上空前の繁栄と平和を謳歌している時に軍団に入った馬鹿共がつまらない理由で死ぬのを見たいとも思わなかった。俺が幾つかのコツを教えてやり、それを身につければ彼らと俺が生き残るのならそれに越した事はない。
おそらく周りからは練兵場で初めて会った時のケリアリスと同じ顔をしている様に見えた事だろう。
つまり、月の無い夜は部下に刺されない様に背後にご用心、という訳だ。

個々の人間は必ず死に、儚く滅び、皇帝陛下の様な傑物でもない限り瞬く間に人々の記憶からも消える。何一つ残らない。しかし軍団がある限り、そのアルス(技)と精神と伝統は受け継がれる。それはローマに属す人々とローマの存在、あらゆる知識と技術、精神にも言える事だ。

月日は瞬く間に過ぎ、俺は退役の時期を探っていた。ところが俺を導く運命の女神は再びろくでもない定めを投げて寄こした。
ユダヤ属州の反乱だ。年齢からしてこれが最後の大戦になる事は分かっていた。随分前から完全装備で不眠不休の連夜は体に堪えたし、かつての様に回復するのにも時間がかかる様になっていた。賽子を転がしてから30年、40歳の半ばを過ぎ、とうに退役可能な年数を過ごしていたが、ケリアリスと同じ様に退き時と言う奴を計りかねていた俺にはちょうど良い頃合いなのかもしれなかった。叛徒共の頑強な抵抗を鎮める事が容易ではない事は分かっていたが、俺の華麗なる軍団履歴の終幕を飾るには上等過ぎる相手と言えた。――つづく――次回、ローマ軍の物語、第23話”ヤヌス神殿の扉”ROMA AETERNA EST!!

選任:元首政以降、百人隊長以上の任官は最終的に皇帝の裁可が必要だった筈……。

ユダヤ属州の反乱:バル・コクバの乱、第二次ユダヤ戦争(132-135年)。唯一神信仰、戒律などの文化の相違は、幾度に渡り他の文化・信仰を持つ住民との摩擦・衝突に繋がった。度重なる反乱と鎮圧の歴史を見るとローマ帝国が異民族や異文化に対し、殊更に排他的かつ差別的な体制の様に見えるかもしれないが、2世紀のローマは異教や異文化に寛容な面を持っていた。それどころかミトラ信仰やイシス信仰の様に外来の宗教が流行する事もあった。元老院はガリア、ヒスパニア、アフリカなど様々な属州出身者で占められており、皇帝自身が地方出身者である様に出身地も重要な問題ではなかった。彼らが問題としたのは差異そのものではなくローマという体制にとっての平和、繁栄、秩序を乱すものであった。故に相手がどこの誰であれ、叛徒は完膚なきまでに制圧し、弓引く者は容赦なく滅ぼした。戦争や鎮圧の原因は宗教や民族、文化の相違そのものではなく指導者の野心、経済活動(国益であれ、私利私欲であれ)・政治・軍事戦略がその多くを左右した。とはいえ陛下、エルサレムの神殿跡にユピテル(多神教、ローマの主神)の神殿を建てるのは流石にヤバいんじゃないかと!

月の無い夜:百人隊長は部下の生殺与奪を含む絶大な権限を持ち、兵士から尊敬と畏怖の念を抱かれたが、厳しい訓練や懲罰などは恨みの原因となる事もあった。部下に侮られるのも問題だが、粗雑に扱ったり、あまり理不尽な命令や要求をするのは止めた方が良いだろう。矢玉は常に前から来るとは限らない。

退役:通常は20-25年で満期だが、経験を買われ職場復帰する者もいた。エウォカトゥス(現代で言う予備役か)など。

華麗なる軍団履歴:個人の思い出も国家の歴史も人類の記憶は常に美化される。

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2016-05-18 15:00:01 +0000