小野田さんと鈴木さん。

いっとうさい

時に1972年2月。 
僕の地元・札幌で行われた冬季五輪での日の丸飛行隊大活躍に日本が湧いていた頃、「グアム島で元日本兵投降」の衝撃的ニュースが!
なんと、戦後日本でオリンピックが2回も開催されている間に、まだ戦っている人がいたとは!
帰って来た横井庄一元伍長の「恥ずかしながら帰ってまいりました」の一言は「戦陣訓」の精神「生きて虜囚の辱めをうけず」が二十数年もの間横井さんを縛り、また一方で支えていた事に日本国民は衝撃を受けました。
同じ年の10月、西独ミュンヘンで行われていた五輪で男子バレーをはじめとする日本選手の活躍に列島が湧いていた頃、今度はグアムよりずっと遠いフィリピンのルバング島で、なんとフィリピン警察と元日本兵の間で銃撃戦、のニュースが!
このとき亡くなった小塚元上等兵は、太平洋戦争の、いや第二次世界大戦の最後の戦死者となりました…。
横井さんはどちらかというと、敵に見つからないよう懸命に隠れて生き延びていたのですが、ルバング島の日本兵は戦後ずっとゲリラ戦を継続していたのです。
日比双方に犠牲者が出ていたこともあり、一刻も早く戦いを終わらせる為に生き残った小野田元少尉の懸命な捜索が始まります。近親者や元上官の呼びかけにもかかわらず一向に小野田少尉は出てきません。
それから2年近く経った1974年2月、突然新聞に小野田少尉の鮮明なカラー写真が載り、またしても日本中に衝撃が走りました!ホントに走りました!!当時中2だった僕も走った記憶があります!! 
写真を撮ったのは世界中をリュックひとつで旅していた、今でいうところのバックパッカーの青年・鈴木紀夫さん(当時24歳)でした。単身ジャングルに入って小野田元少尉に接触し、「上官の停戦命令があれば出て行く」というメッセージを日本に持ち帰り、そこからはとんとん拍子に話が進んで、小野田さんは28年ぶりに祖国の土を踏んだのであります。

…と、いう話は皆さんよくご存じだと思いますが、当時印象に残ったのは今回描いたイラストのやりとりです。再現ドラマとかやってもこの会話が出てこないので残念に思い、つい描いてしまいました。
鈴木さんは1986年にヒマラヤで亡くなり、小野田さんも先週の16日にこの世を去られました。
またしても昭和が遠くなりました…
合掌。

#小野田寛郎#鈴木紀夫#ルバング島#元日本兵#1974#昭和49年#九九式短小銃#mourn#陸軍中野学校

2014-01-20 13:45:54 +0000