「敵は地獄のデストロン。」・・・さて特撮系の画は約3ヶ月半振り位で御座いましょう哉?いや「ライダー」系ならば10ヶ月振りに成りましょうが、第199作で御座います。さてさて200作を目前に控えて、此れ迄の[活動]を振り返って見るのも宜しかろうかと存じます。さて現状の筆者は結果として[追悼画]を描く事が多いのですが、嘗て申した如く、筆者自身、必ずしも[追悼画]を描く事に前向きな心境と云う訳でも御座いませぬ。寧ろ大袈裟でしょうが、使命感の様な感情に衝き動かされて居る仕儀です。何故だろうか?此れも先日、申した如く、即ち「恩返し」とでも云う可き事由で御座いましょう哉。まあ究極的には他者に理解不可能で在っても己の気持ちに決着が附けば充分かと存じますが、仲々に理想からは遠き現実やも知れませぬ。はて、どうやら「此の場」全体を見渡せば、所謂「追悼絵」に対して「親戚でも無いのに癡がましい」と考えられて居られる向きも多いらしい。唯、其の発言には「絵」を技術面で判断して居られる内容も含まれて居るので、其の点に賛同出来ぬが、一つの物の見方では有るかも知れぬ。然れど嘗て申した如く、筆者は[画]と云うモノに技術以外の[何か]を求めて居る故に、窮極的には相容れぬ見解で在る。寧ろ此の場合、其れ等の考え方は「心無き発言」でしか無いと云えよう。哀しいが其の様にしか物を観られ無い向きは少なく無い。まあ、だからと云って何を、どうしろとか云う話でも無い。以前にも申したやも知れぬが、他者が如何に考えるかは他者の心根次第で在ろう。成らば最早詮無し。然う、大切な事は[己が如何に思うか]で在ろうよ。倩々と考えて見ますに筆者が[追悼画]を執筆するに際しては、悲哀の念が在るのも確かなれど、不意に思わば更に其の先に見ゆるモノとて御座る様です。其れは何か?即ち其れは故人の事績に対する敬意と呼ぶ可きか?敢えて云うならば、筆者は[デジタル版顕彰碑]とでも申す可きモノを刻んで居るのやも知れませぬ。まあ理解出来ぬ向きには永久に理解不可能で在ろう。何故ならば[気持ちの問題]で御座います故にね。仮に追悼の名を借りて[閲覧数稼ぎ]とやらを狙うなら有名タグが複数必要だろう。然れど筆者は敢えて故人の知られざる作品を採り上げる事も多い。詰まりは[顕彰]と云う事。其処で此の際、向後は「顕彰画」を活動とし、此度は「納谷悟朗氏顕彰画」第2章と致そう。
2013-03-17 15:21:26 +0000