輝く月が綺麗ですねと、そんなことを言ったのはどこの空想家だっただろうか。月明かりが夜の闇に影を落とす時分、少しばかり湿った空気のにおいに鼻を鳴らして長い睫毛を伏せた。歩きにくい踵のとがった靴で床を叩けば白い大理石のそれはカツンと乾いた音を立てる。似合いの撫子色のドレスをまとってしまえばもはや特別な感情は浮かんでこなかった。麻痺している、とは思ったが、しかしそこで感情を動かしたところでやはりそれは何にもならないのだから、ならば下手に感情など動かないほうが良い、ただの仕事なのだから、これは。そう己に見切りをつけた銀糸の麗人、シェリーは城のテラスから外を見送り、背後からの気配に小さく息を吐いた。視線の先には飛行する船、空飛ぶ船とはなかなか大した魔導具だ。そしてそれが―――今回の仕事の対象である。【魔王の舞踏会に奇襲を企む部族の殲滅】、ただそれだけの単純な仕事だ。わざわざそのためだけにそこに居ても不自然でない様相を演じる羽目になった。魔王の婚約者のふりまでして。いつの間にか隣に立っていたその魔王様に、いけるか、と、問われて首を振る理由もない。こういう仕事はさっさと済ませてしまうに限る。対象の場所までは魔導で飛んでいければ一番楽なのだが、近づくまでに魔導を使って感づかれるわけにもいかない。結果としてその翼を借りることになったのだ。自力で飛べぬのはたまに不便だ。それだけ思い、その肩に腕を回す。こちらが落ちないようにと腰に回された腕に、まるで本物の婚約者ででもあるかのようだと、胸糞の悪い想像は飛び立つのに邪魔なヒールとともにその場においていく。たとえば、恥らったりでもすればいいのだろうか、無駄なことを考えながら視線を流した。これを夜空の散歩などと称したらなかなかに浪漫的な表現ではあるが所詮これから行われるのは人殺しだ。こんな夜はやはり淡々と流れる空気が心地よい。翼の羽ばたく音がして、ふわりと宙に浮く体。あとは上空から目的地に落ちるだけだ。足場がないので魔王の足を踏み台にして力を込める。動くのに煩わしいドレスの裾をたくし上げ、内部に潜ませた暗殺用のナイフをとりやすいようにしておく。そうして今まさに踏み出そうとしたその瞬間にふと言われた。「そういえばシェゾ、誕生日おめでとう」。そこで初めて今日がその日だと気づく。その瞬間に居るのが何故彼なのか、まぁそれで特別感情も動かないのだけれど。
2013-03-15 15:00:03 +0000