紫式部の子孫(高階氏)と源平関係略系図

たいらの ふうこ

下の方が特に影になって見にくくて済みませぬ(汗)。地味に前回(illust/33758673)と繋がってます。『源氏物語』の作者としては有名な紫式部(藤原香子?970-78~1019?)は藤原宣孝(1001没)の妻の一人(正妻ではない)となり、娘を一人儲けます。その前に一度結婚歴があるという説もありますが、確定には至らず。娘は母と同じく百人一首に選ばれる程の歌人で、大弐三位と呼ばれる藤原賢子(999/1000~82?)です。彼女は母と同様に上東門院藤原彰子(道長の長女で一条天皇中宮。後一条天皇と後朱雀天皇生母)の女房となり、やがてその従兄弟の藤原兼隆(藤原道兼の子で正二位中納言。985~1053)と結ばれ、一女を儲けますがやがて離別。その前後の1025年に上東門院の孫かつ甥(女院の妹の嬉子と女院の子後朱雀天皇の第一皇子)である後冷泉天皇(親仁親王。1025~68)が誕生。彼女はその乳母に選ばれました。女房名は越後弁、弁乳母、1054年に従三位に叙位されて後は藤三位とも。1036年までに高階成章(990~1058)と結婚して夫が太宰大弐に任じられた為に大弐三位と称された訳ですね。成章との間に少なくとも一男・為家(1038~1106)を儲けますが、他にも子を生んだかは不明。兼隆との娘は敦平親王の妃になった可能性があります。後冷泉天皇には三人の后妃がいましたが、いずれも子には恵まれず、女御・藤原歓子の儲けた皇子も1149年即日薨去。ところが女房の一人が男子を儲け、乳母である大弐三位とはかって彼女の孫に偽装したそうです。こうして紫式部の子孫は主に高階氏に、やがて源平両氏、果ては摂関家や皇室にも枝葉を伸ばします。歴史とはまことに面白き展開を見せてくれるもの。高階氏は高市皇子の子孫にもあたるのですから…。八条院は鳥羽院(1103~56)と美福門院・藤原得子(1117~70)の愛娘で、近衛天皇の実姉。弟没後は女帝候補にも上がった女性です。鳥羽院の莫大な荘園を多く相続。生涯独身ながら数多くの猶子を貰い、その中には甥(異母兄・後白河院の皇子)の以仁王も。平安末期の内乱に大きな影響を及ぼしました。

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2013-02-24 12:31:25 +0000