戦後の再出発を果たした帝急は膨大な路線網を改めて保有する事となったが、広大な路線を結ぶ速達列車の製造と運用は同社にとっての悲願であった。 1950年から帝急は鹿島線、鹿島周辺での観光地開拓に乗り出した。同線は元来鹿島神宮への参拝客向けの運用を中心としてそこそこの利用客を得ていたが、本格的な利用車拡大には至っていなかった。 1950年後半、国鉄がフラッグシップモデルの151形特急電車をデビューさせると、関東の私鉄では一斉に特急電車の開発にいそしむようになった。帝急としても、この波に乗るべく、戦前から途切れていた特急形電車開発に本腰を入れ、151形は無論の事、東武鉄道のDRCにも匹敵するような車両を目指して作られたのが、1960年にデビューしたこの50000形である。車両のデザインについては、前述の2形式の特徴の間の子といったところであろう。 なお形式は通勤形と重複し得ないように5桁とし、既存編成の編成増備によるインフレナンバーも考慮し、50000とした。 導入当初より鹿島線特急「みかづち」の運用に充てられ、その後、全線にわたって活躍する事となる。 この形式は1987年に新型の60000形の登場によって引退するまでの30年近くにわたって成急の路線網に君臨した。 因みに、前照灯の内側はタイフォン、スカートの二つのメッシュおよびフロントガラス上部のものは尾灯である。 帝急から「首都交通を円滑に機能させ、ひいては国を成り立たせる鉄道会社」という意味で名を改めた東京成国急行電鉄では、1980年代に入りバブルの追い風を受け、既存の50000形ではサービス面において他社のそれに大きく遅れを取っていた特急用車両の開発に乗り出す。そして1988年、ついに新型特急用電車60000形が誕生する。全体として50000形の意匠を受け継いでいるこの形式では機密構造において特に力を入れており、乗務員扉初め、側面のドアを全てプラグドア化し、側面をほぼフルフラット化する事に成功している。制御方式も同車特急車では初のGTO-VVVFインバータを採用。時代の先端をいくため開発されたが、前面のエンブレムと大型の愛称表示器を継続して採用しているところに、特急車としての威厳を持たせている。
2012-12-10 15:08:12 +0000