「第10ラウンド」
無敗の世界チャンピオンと、十六歳の少女ボクサーのエキシビションマッチ。
その第10ラウンド。
リングの上では少女ボクサー、メイ・リンが四つん這いになって、血を滴らせながら、荒い息を吐いている。
チャンピオンはそのそばに立ち、不思議な表情で、メイ・リンを見下ろしている。
その顔つきは微笑しているようにも見えるが、口をきつく結んでいるようでもあり、なにを考えているのか分からなかった。
彼女の黒目がちな目は、その奥にある感情が理解できないような、はじめから理解を拒絶しているような、そんな怖さがあった。
レフェリー (まるで宇宙人の目だな・・・)
チャンピオンはレフェリーの視線に気づいて、こちらに目を合わせて、笑みを浮かべた。
背筋がひやりとするものを感じて、レフェリーは目をそらした。
代わりに、レフェリーは、四つん這いになっているメイ・リンの方を見た。
このラウンドで何回メイ・リンはダウンしただろう?
第9ラウンドにチャンピオンのアッパーカットを食らって倒されてから、メイ・リンは何度もダウンをしている。
レフェリーは、そのたびに試合を止めようと思う。
しかし、ダウンしたメイ・リンの顔を覗き込むと、必ず『まだやれる!』という表情をしているのだ。
それで、つい、試合を続行させてしまう。
レフェリーは過去に、『試合を止めるのが早すぎる』と、批判されたことがあった。
『勝者となった陣営に買収されているんじゃないか?』などと疑われたこともあった。
そのせいで、彼は試合を止めることには慎重になってしまう。
『もうすこし出来るのでは』と思ってしまう。
現にほら、メイ・リンは必死に立ち上がろうとしている。
その目は死んでいない・・・それどころか闘志に満ちているようだ。
レフェリーがカウントを数え始めるとすぐ、メイ・リンは中腰になり、立ち上がった。
レフェリー 「やれるな?」
レフェリーがメイ・リンの腕をつかんでファイティングポーズをとらせながら聞いた。
メイ・リンは、うなづいた。
レフェリー 「ファイッ!」
試合を再開させたレフェリーは、だが、なにも分かっていなかった。
この時すでに、メイ・リンの目はなにも映していなかった。
彼女の意識はすでに混濁していて、ただ習慣的に立ち上がっただけだったのだ。
習慣的に立ち上がり、習慣的にファイティングポーズをとり、習慣的に相手の方へ向かっていったのだ。
『闘志に満ちている』ように見えるその目は、完全に瞳孔が開いていた。
・・・レフェリーの犯した過ちは、メイ・リンのボクサー人生に致命的な影響を与えようとしていた。
(つづく)
2024-12-31 10:25:49 +0000