隣国・丹後の守護大名、一色義有の娘とされ、
但馬国守護、山名祐豊の正室として嫁いだとされます。
但馬国守護の山名誠豊には嫡子がなかったので、誠豊の甥にあたる祐豊が、養子に入り後継者となります。大永8年(1528年)山名誠豊の死去によって、祐豊は、山名家宗家の家督と但馬国守護の職を、17歳の時に継いでいます。
彼女の嫁入りの時期などは、信憑性の高い資料が少なく不明です。尚、山名祐豊の1歳年下の弟、豊定は細川高国の娘 #8 を妻に迎えています。
但馬の山名宗家と因幡の山名家は遠縁の同族ですが、因幡の山名誠通は宗家と対立していました。
因幡山名氏の領国の1つであった伯耆国に、出雲国の尼子経久(晴久の祖父)の勢力が伸びると、隣接する因幡山名氏は尼子氏と結んで領国を守ろうとしました。
それに対し、宗家山名氏は背後の大内義隆と結んで、尼子氏を挟み撃ちにしようと考えたようです。
===天文7年(1538年)
出雲の戦国大名・尼子晴久は石見銀山を攻略すると、続いて因幡国に侵入し、平定してしまいます。更に尼子氏は赤松氏領の播磨国へと進軍し猛攻をかけます。
但馬の山名宗家は先代までは、尼子氏と同じく細川高国を支持していましたが、晴元派に切り替え、新幕府体制に名を連ねていた様です。
尼子晴久の猛攻に対し、管領・細川晴元は、危機感を覚え赤松所領の播磨、備前、備中に、援軍の派兵を検討します。
2024-11-21 13:04:27 +0000