本日11月21日は巡戦「比叡」、重巡「利根」、駆逐艦「照月」の誕生日です。今回は巡洋戦艦「比叡」について解説していきます
巡洋戦艦 「比叡」
建造元のイギリスさえ認める傑作戦艦となった「金剛」、そんな「金剛」から遅れること10ヶ月。現地へ派遣した技術者の経験と調達した図面から、いよいよ国産の超弩級戦艦の建造の準備が始まりました。
といっても、実は材料の大半はヴィッカース社に注文しており、純国産、とは言いづらい建造過程です。
「仮称卯号装甲巡洋艦」という名称で1911年11月4日「比叡」の建造はスタートしました、その後1912年11月21日に進水、1914年8月4日に竣工しました。
「比叡」は「金剛」建造に伴って判明していた不具合を解消するために、いくつか改良点があります。
一番わかりやすのが煙突でしょう。
これは艦橋などへの排煙の流れの考慮により「比叡」の1番煙突のみが長くなっています
また、1、2番煙突の場所そのものも後ろに下げられました。
「比叡」は竣工してたった1ヶ月で、さっそく東シナ海へ出動しています。
日本が第一次世界大戦へ参戦することになったためです。
しかし第一次世界大戦で日本は、『金剛型』の脆弱性に直面します
『ユトランド沖海戦』では巡洋戦艦の激しい撃ち合いが繰り広げられましたが、
速度>防御のイギリス巡戦が主砲<防御のドイツ巡戦に対して非常に不利な戦いを強いられ、イギリスは大きな被害を負ってしまいます。
「速度は装甲」という考えが誤りだったことが判明したのです。
これに伴い、日本は2つのことを決定します
1.強固な超弩級戦艦の建造(「八八艦隊計画」)
2.『金剛型戦艦』の改装
1が優先されたため、『金剛型』改装は後回しとなっておりましたが、その中でも「比叡」は、改装が最も遅い『金剛型』でした。
1929年10月、ようやく第一次改装に着手したと思えば、今度は翌年に『ロンドン海軍軍縮条約』が締結されます。
それによって戦艦保有上限が見直され、各艦廃艦とする戦艦が決まりました。
しかしその中の一部の艦は武装削減等の条件を満たした練習艦としての運用が許されます
日本はこの時点で比較的艦齢を重ねていて、かつ改装も進んでいない「比叡」が、練習戦艦に格下げされることになりました。
1933年1月1日、「比叡」は正式に練習戦艦となりました。
練習戦艦として第二のスタートを切った「比叡」ですが、勤務員の一人である吉田俊雄は「お年寄りのようだ」と言い、また「比叡」最後の艦長となる西田正雄は、練習戦艦となった「比叡」を見て涙を流したそうです。
それぐらい、巡戦時代からは想像もつかない、簡素な姿だったのでしょう。
しかし、悪いことばかりではありませんでした。
出撃もなく、艦内のスペースにも余裕が生まれたことで、昭和天皇の御召艦としての大役を任されることになったのです。
4年の練習戦艦時代を終え、ついに高速戦艦「比叡」誕生の時がやってきます。
『ロンドン海軍軍縮会議』の脱退をもって、
「比叡」も他も高速戦艦として復帰する為の大改装をする事となります。
加えて『大和型』の建造に向けてのテストも行っています。
他の『金剛型』の艦橋は檣楼型ですが「比叡」のみ塔型となっている他、各種補機類も、三隻とは違う最新のものが採用されています。
こうして「比叡」は最も性能の良い『金剛型』として再出発します。
太平洋戦争開戦後、「比叡」は『真珠湾攻撃』を行う機動部隊の護衛に就き、翌年にはポートダーウィンの攻略部隊にも加わっています。
3月には逃走する連合軍の中の米クレムソン級駆逐艦「エドサル」を追い詰めて撃沈。
これが、太平洋戦争で日本の戦艦が初めて敵艦を沈めた戦果となりました
6月の『ミッドウェー海戦』にも参加しますが、この戦闘では空母4隻以外の出番はほぼなく、もちろん「比叡」も何もできませんでした。
やがて8月には『ガダルカナル島の戦い』が始まり、「比叡」はじめ4隻の『金剛型』がトラック島に集結します。
戦闘は苛烈を極め、『第一次ソロモン海戦』『第二次ソロモン海戦』『南太平洋海戦』と、一進一退の攻防が繰り広げられましたが、その中で日本を最後まで苦しめたのが、ヘンダーソン飛行場でした。
そして11月、『第三次ソロモン海戦』において、「霧島」ら挺身攻撃隊とともに「比叡」は出撃。
ヘンダーソン飛行場の壊滅を狙う帝国海軍と、それを阻止しようと立ちふさがった米艦隊との海戦が勃発します。
この、海戦史上屈指の乱戦となった『第三次ソロモン海戦』で、「比叡」は初弾を米アトランタ級軽巡「アトランタ」にぶち込み、艦橋に命中した三式弾は将校達を一瞬で殺害しました。
海戦は早々に「夕立」「春雨」が敵軍に突っ込んで陣形をかき乱すなどしたために、両軍ともに終始大混乱の状態でした。
「比叡」は探照灯を照射して敵艦隊に突撃していたため、砲撃の的ともなってしまいます
「比叡」が主に戦った相手は、初弾を浴びせた「アトランタ」の他に「サンフランシスコ」と米ベンソン級駆逐艦「ラフィー」米マハン級駆逐艦「カッシング」が挙げられます
これらの艦艇と至近距離で激戦を繰り広げた「比叡」は多くの艦艇を撤退に追い込みましたが、それだけに「比叡」の被害も多く
操舵と通信施設が壊れ、連絡の取れない真夜中に1人、旋回し続ける事となります。
「雪風」がそんな「比叡」を探しだします。後から「照月」「時雨」「白露」「夕暮」が到着しますが、状況は好転しません。
駆逐艦では戦艦を曳航など出来ず。「霧島」が駆けつけましたが、もうすぐ夜明け。夜明けと共に空襲がくるのは明白で、速度や回避能力が著しく下がる曳航をしながら日中に撤退をする事は危険すぎるとして、「比叡」は護衛を受けながら応急処置を行い北方への避難が決定され、夜明けとともに想定される空襲に対抗するため、日本も戦闘機を直掩に向かわせます。
夜が明け、危惧していたとおりアメリカ軍はヘンダーソン飛行場から飛び立った機動部隊による攻撃を開始。
舵が壊れている「比叡」では回避行動も難しく。執拗な攻撃に晒され続けます。
西田正雄艦長はそれでも「比叡」の離脱を諦めず、阿部中将が「もう乗員移せ」と命令しても拒んでいます
ですが愛着と根性だけでは事態は好転しませんでした。
正午近くには、再度阿部中将から退艦命令が出され、西田艦長は抵抗しますが、機関室の全滅が報告され断念。
総員退艦命令を発し、部下には自分は「比叡」と共に死ぬと残留しようとしますが、やむなく乗員は強引に艦長を抑え込み、涙をのんで「雪風」に乗船させます
「比叡」はキングストン弁が開かれ、もう後戻りはできなくなります。
やがて雷撃処分命令が下され、「雪風」は「比叡」から距離をおきました。
そこに舞い込む不幸な知らせ。
「機関室全滅は誤報」
雷撃処分の命令そのものは取り消されたものの、「雪風」が再び「比叡」のもとへ向かうことはありませんでした。西田艦長は自らの死に場所を取り上げられ、また自分の船の最後を見届けることもできませんでした。
「比叡」は、帝国海軍所属艦艇で、太平洋戦争で初めて沈んだ戦艦となったのです。
2024-11-21 06:48:53 +0000