備中西部を拠点とした国衆、三村家親の正室として嫁ぎます。彼女は三村元親の生母で阿波三好氏の女性とされていますが、嫁入り時期、生年などは不明となっています。
備中国は細川野州家が代々、守護大名として治めていました。(野州家は細川高国や晴国の生家になります)在京している事が多かった守護に変わり、備中国内では、守護代の庄氏をはじめ、三村氏、石川氏、上野氏などの国人領主たちが大きな力を持っていました。
===天文7年(1538年)
尼子晴久が本格的に備中に侵入し、国人衆を支配下に置きはじめます。圧迫に耐えられなくなった、備中守護である細川野州家・道政は、浅口の地から同じく野州家が所領としていた伊予国・宇摩郡へ逃れました。
尼子氏と結び、備中国で抜きん出た存在になっていた備中松山城の庄為資は備中半国を領有するほどになります。
三村家親も尼子晴久に従属し、勢力を拡大していきます。
2024-11-18 13:22:43 +0000