本日11月1日が誕生日の艦艇は戦艦「武蔵」駆逐艦「江風」「谷風」潜水空母「伊36」です。多いですね。ですが一隻存在感がレベチな艦が居ますね。そうです『大和型戦艦』二番艦「武蔵」です。と言うわけで解説に移っていきましょう
大和型戦艦 「武蔵」
戦艦「武蔵」は『大和型戦艦』の二番艦として1938年3月29日に起工され、1940年11月1日に進水、1942年8月5日に竣工しました。
「武蔵」の公試中に、大敗北の事実を隠すために幽閉されていた「赤城」の生存者が新たに乗組員として加わりました。
竣工後には『ガダルカナル島の戦い』が勃発したことで、機動性の高い艦艇が集中的に動員されたことから「武蔵」がすぐに出動することはありませんでした。
「武蔵」は柱島に残って猛烈な訓練を続け、そしてそのまま1942年が過ぎていきました。
この待機期間中の9月に、「武蔵」は21号対空電探を搭載した状態で射撃演習を行いました。結局21号電探は電探全体の安定性のなさに加えて、大型、波長の長いメートル波を用いる電探という事で優先度が下がっていき、対空電探はより小型の13号に切り替わっていきます。
1943年1月18日、ついに「武蔵」は本土を離れてトラック島に進出。
「大和」から連合艦隊の旗艦を受け継いで、山本五十六連合艦隊司令長官が乗艦します。
超戦艦が2隻鎮座するトラック島は、大変平和なものでした。
一方で戦況は全く改善の兆しがありません。
年明けとともに、大量の艦船と人命を失った地獄のガダルカナル島からの撤退が始まりました。
戦艦の出番がないまま、月日が過ぎていきました。
戦場から遠い存在の不沈艦は、俯瞰的に見ても主観的に見ても初陣を飾れないことに焦りがでてきました。
何しろ「武蔵」が初勤務の乗員は、開戦から1年が経過してもこの目で戦争の現実を見たことがありません。戦争が始まってこのかた、『大和型』はおろかかつてのビック7である『長門型』ですら腰を下ろしたままです
そんな中、『い号作戦』激励の為に4月3日にラバウルに発ち、その後ラバウルからショートランドへ向かう山本長官を乗せた【一式陸上攻撃機】が、暗号を解読したアメリカの【P-38】の襲撃によって撃墜されるという『海軍甲事件』が発生します。
4月18日のことでした。
1ヶ月間はこの事実を秘匿し続けた上層部でしたが、特に住処であった「武蔵」の中では、そもそも戦死した18日の段階で「武蔵」を出発してから2週間が過ぎていることから色んな噂が飛び交っていました。
「武蔵」が山本五十六戦死の訃報を初めて受け取ったのは、4月21日のことでした。
その後もこのことはトップシークレットとなり、大半の乗員は空のままの椅子を眺めるばかりでした。
4月23日に遺骨が「武蔵」に戻ってきました
しかし長官室付近は見張りが立って立ち入り禁止となったほか、25日に古賀峯一大将が「武蔵」に乗艦した時から大将旗が再び翻ったことで、士官も徐々に事態を理解し始めました。
5月17日に「武蔵」はトラックを発ちます。
21日には「武蔵」の乗員にも山本長官の死が正式に伝えられ、そして「武蔵」はかつての主の遺骨を本国へ送り届けるために日本へと帰っていきました。
横須賀港を目前に控えたところで、艦内では告別式が執り行われました。
入港後は遺骨が引き揚げられましたが、一方で天皇陛下の行幸も行われています。
ドックでの整備を行った後、7月31日に「武蔵」は愛媛の長浜沖よりトラックに向けて出発しました。
このトラックに在泊中に、「武蔵」は防火対策のリノリウムや塗料剥がし、可燃物の撤去が継続して行われ始めました。対抗すべきは砲撃ではなく空襲であることを自覚し始めたのです。かつては内装も豪華で洋上ホテルと言える存在だった「武蔵」でしたが、日に日に彩りは失われ、やがて殺風景な鉄だらけの艦内へと姿を変えていきます。
1944年2月17日、トラック島が空襲されます。2月10日に「武蔵」や重巡、空母らはトラック島を出撃していた為難を逃れました
「武蔵」撤退から1週間もあったのにトラック島は甚大な被害を負ってしまったのです。
どれだけ輸送が重要であっても、何よりもまず不沈艦が大事、「武蔵」は15日に横須賀に到着しました。
ただ、横須賀に戻った後の「武蔵」の今度の仕事は、言い方は悪いですが、見捨てた輸送船たちの代わりでした。通商破壊による被害が続出している中、皮肉なことに、潜水艦の魚雷を受けても余裕綽々で通過できる頑丈性を持つ「武蔵」が、初めて「武蔵」であるが故に行えた任務とも言えるでしょう。
そんな輸送の日々を過ごしていた「武蔵」ですが29日パラオからの離脱途中に、米潜水艦の魚雷を一発受けてしまいます。ですが、一本程度では対したダメージにもならず。反撃の爆雷の音の方が腹に響いたと言う程でした
損傷もあって「武蔵」はそのまま呉へと戻ることになりました。
呉に帰投した「武蔵」は、修理と同時に無用の長物となっている15.5cm三連装副砲のうち側面に設置している2基を撤去し、25mm三連装機銃が両舷3基ずつ、三連装機銃がさらに16基、単装機銃が25基増備されています。また12cm28連装噴進砲や22号対水上電探2基、13号対空電探2基もこの時に設置されました。
その後『あ号作戦』とそれに付随する『マリアナ沖海戦』の為に「武蔵」は他の多くの主力艦とともにタウイタウイ泊地へ進出します
「武蔵」らは5月11日に佐伯湾を出港してタウイタウイへ向かいました。
この『マリアナ沖海戦』で「大和」「武蔵」は三式弾で20機近くを撃墜しました。とは言え『マリアナ沖海戦』の結果は惨敗でした
空母は「瑞鶴」と改装空母のみ、艦載機は数不足でまともに揃える事もできない。
こうなると最強の旧時代兵器である戦艦を中心に一点突破するしかありません。
残る戦力のほとんどを注ぎ込んで、破れかぶれの『捷一号作戦』が発動されました。
24日午前10時29分から、第一波の攻撃機が栗田艦隊に襲い掛かってきました。
『シブヤン海海戦』の始まりです。
第一波で右舷中央に魚雷を一発被雷
12時7分から第二波が押し寄せ
「武蔵」と「大和」へ攻撃が集中しました。
第二波で左舷に魚雷を3発、爆弾は2発被弾します。どうにか耐えきるも
次は13時30分から第三波、そして数分後に第四波が立て続けに到来します。
第三波で魚雷5、直撃弾4、至近弾2
その後の第五波は「武蔵」は狙われませんでしたが、
14時59分第六波の空襲が「武蔵」を仕留めんと襲ってきます
第六波で被雷11本(2本不発)、直撃弾10発、至近弾6発
総被害:魚雷19本、直撃弾16(17とも)、至近弾は10発以上と言われています
ですが、この攻撃を受けても「武蔵」は沈まず、攻撃を耐え抜きます。ですが重油は漏れまくり、甲板までか、艦内までも辺り一面肉塊と血で埋め尽くされていました
最終攻撃から約4時間後の19時15分、傾斜はついに12度に達しました。
副長である加藤憲吉大佐が、総員退去を決定
不沈艦「武蔵」の最期が決まった瞬間でした
2024-11-01 07:43:45 +0000