「オレの名前は『土佐闘犬』!生まれながらのファイターだ!
大抵の奴なら俺が一睨みしただけでブルって逃げ出しちまうが、たまに踏みとどまってやり合おうって奴もいる。
そういう奴は好きだぜ♪まあ結局ぶちのめしちまうんだけどな!
俺がビビるような相手?今の所そんな奴は見た事が無いが…その時はためらわずに逃げるに限るな。
生きていりゃリターンマッチのチャンスがある。要は次で負けなければいいんだからな!」
日本原産の闘犬用犬種『土佐闘犬』のオリフレです。
江戸時代の土佐藩で藩士の士気向上を目的として武士の間で現在の四国犬(当時は本種が土佐犬と呼ばれていた)を使った闘犬が盛んになった事がきっかけになり、嘉永年間から安政年間(1848年~1860年)には庶民の間でも闘犬が流行りはじめ、土佐藩による禁止令が度々発令される事態になったものの効果が無く、最終的には武家の名義を借りた『預かり犬』として扱う事で折り合いをつける事となり、結果として土佐には闘犬文化が深く根付く事になりました。
しかし明治4年(1871年)廃藩置県により土佐藩によって敷かれていた畜犬飼育に関する制限が消滅するにあたり、規制消滅により闘犬が氾濫する事態を危惧した高知県は「闘犬取締令」を交付し、闘犬の捕獲と撲殺駆除を実行しました。
当然ながら闘犬愛好家からの反発は大きく、その見直しを求めて政界から退いて地元である高知に帰って来ていた板垣退助も動き出し、1897年9月に『闘犬取り締まり規則(高知県令第七十三号)』により課税による許可の上で闘犬は公認される運びとなります。
この頃からより強い闘犬を作り出そうとイングリッシュ・マスチフやグレートデーンの様な体躯に恵まれた海外品種と四国犬との掛け合わせが流行りだし、その形質は四国犬からかけ離れていき独自の犬種に変化していきました。
1933年に土佐犬普及会が設立され、1935年から「土佐犬」という品種として血統書の発行が始まりましたが、太平洋戦争時には食料不足による飼育難により高知県内から重要な血統とされた13頭の土佐犬が県外疎開を行わざるを得なくなったばかりか高知県内に残された残りの土佐犬は激化する空襲により全滅してしまう結果となり、高知に土佐犬が戻るのは1948年の事です。
その後1994年5月20日に高知県天然記念物に指定されるにあたりかつての土佐犬(現在の四国犬)と区別するために名称を『土佐闘犬』と定めました。
ここまでの来歴からも分かる通り土佐闘犬は純粋に闘犬用犬種として生み出された犬である事から闘争本能が高く飼育が難しい犬種の一つであり、厳重な管理下での飼育や口輪の装着が望ましいとされていますが残念な事に不出来な飼い主の管理不足に起因する傷害事故や死亡事故が度々発生し、それによる過度な危険視や闘犬に対する忌避感の強まりにより土佐闘犬の居場所は失われつつあります。
2024-10-26 11:49:19 +0000