誕生日艦紹介#33 重巡「青葉」

時雨光
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皆様お久しぶりです。本日9月25日は「雲龍」「青葉」「矢矧」「鹿島」「神風」「稲木」です。ちょ多い多い、補足として「矢矧」は10月25日の説もあります
にしても今日多すぎです。。めっちゃ悩むんですが、今回は艦これで最初の方にお世話になっていたのもあるので、重巡「青葉」についてご紹介しようかなと思います。リクエストあれば、今日誕生日の子は後日投稿しようと思います。それでは解説にいきましょう

重巡 「青葉」
「青葉」は『青葉型重巡洋艦』の一番艦として建造されました。ですが、たまに『改古鷹型重巡洋艦』とも言われます。
これは青葉型の設計背景にあります。
1926年に『古鷹型重巡洋艦』が2隻建造されましたが、その欠点は明白でした。
20cm単装砲6基、これはすべて人力装填でした。
軽量化というメリットは出たものの、これでは次発装填中に敵に狙い撃ちされても、反撃に時間がかかってしまいますし、長期戦になって砲塔内の弾薬が減ってきた場合、いちいち弾薬庫から砲弾を持ち上がらなければなりません。
もともと『古鷹型』を設計した平賀譲は、「古鷹型に連装砲はムリだ」として連装砲の装備に否定的だったのですが、それを強引にねじ込んだ形になったのが『青葉型重巡洋艦』です。その為基本的な形は『古鷹型』と同様の為『改古鷹型』と言われる事もあるのです。
そんな「青葉」ですが本来は『青葉型』一番艦の「青葉」と二番艦の「衣笠」は『古鷹型』の三番艦、四番艦となるはずでした。
しかし上記のような欠点があったことから、この三番艦、四番艦を再設計することでより強化させることになります。
基本設計は『古鷹型』と同様ですが、当然主砲は『古鷹型』の人力単装砲から機力連装砲である20cm連装砲へ強化。
また、「青葉」は「衣笠」がカタパルトを搭載した翌年に自身もカタパルトを搭載しています。
『古鷹型』の改装は、『青葉型』に倣って行われています。
『青葉型』の2隻はこの時に砲塔を撤去せずに既設の砲塔口径を3mm削った20.3cm連装砲へ、『古鷹型』は単装砲をごっそり入れ替えて新しい20.3cm連装砲を搭載しています。なので、同じ20.3cm連装砲でも砲の形に若干の違いが見られます。

ここからは「青葉」の艦歴について見ていきましょう。「青葉」は1924年2月4日に起工され1926年9月25日に進水。1927年9月20日に竣工します。
1933年5月20日「青葉」は『古鷹型』の「加古」と「衣笠」が第六戦隊に加わり、その後「古鷹」も加わり計4隻で第六戦隊を編成し、太平洋戦争に挑みます。
『真珠湾攻撃』の直後に繰り広げられた『ウェーク島の戦い』では予想外の苦戦と駆逐艦2隻の沈没という憂き目を見たため、増援部隊として「蒼龍」「飛龍」「利根」「筑摩」「浦風」「谷風」そして第六戦隊の4隻、計10隻を送り込んで思いっきりねじ伏せています。
一方、5月の『珊瑚海海戦』では「祥鳳」の護衛を任されますが、初の航空戦に適応できずに「祥鳳」を守り切ることができませんでした。
残念なことに、「祥鳳」はこれが空母に改装されてからの初陣でした。
続く『第一次ソロモン海戦』では、偵察機による索敵を成功させ、その後の一方的な戦況をアシストしています。
この戦いは元「青葉」艦長である三川軍一長官率いる第八艦隊の大手柄で、旗艦「鳥海」以外は半ば寄せ集めのような艦隊にも関わらず、多数の敵艦を撃破しています。
魚雷発射管に被弾するという危機も幸い小破ですみ、上々の戦果を上げました。しかしその帰り道、対潜警戒が緩んだところに米潜水艦「S-44」の魚雷が「加古」を襲います。
3発の魚雷を受けた「加古」はあえなく撃沈
第六戦隊の4隻での日々はここに終わりを告げました。
続く『サボ島沖海戦』は想定外の海戦でした
難攻不落のヘンダーソン飛行場基地の砲撃に備えて「青葉」はガダルカナル島へと進んでいたのですが、前方に艦影が確認されます(アメリカ側は、カタパルト上の偵察機が火災を起こして、この炎が「青葉」は島の陸軍が合図のために火を焚いたと思い込んだのではないか、としています)これを「青葉」は先に揚陸作戦のために向かった、「日進」「千歳」と早とちりしてしまいます。
「青葉」はその艦影に向けて「ワレアオバ」という発光信号を放ちました。
しかしそれが敵艦隊だったため、返ってきたのは無慈悲な砲弾の嵐でした。初弾がいきなり「青葉」に直撃し、これは二番砲塔を貫いて内部を完全に破壊。
その後後部の三番砲塔の背面にも直撃し、こちらも砲塔を貫通。
さらには艦橋も砲弾が貫通し、ここで第六戦隊司令官の五藤存知少将や副長の中村謙治中佐が戦死した他、多くの士官が死傷します。艦橋と主砲を破壊された「青葉」は、反撃する間もなく一瞬で大破。
その後も容赦なく攻撃を受けた「青葉」は、乗員の7割もの死傷者が発生するものの、弾薬庫と機関を守りぬいて煙幕を張りながら命からがら逃げ延びます。
その道を作ったのは「古鷹」でした。
旗艦の危機に、「古鷹」は探照灯を敵艦隊へ放ちながら突撃します。
「青葉」の前に割って入った「古鷹」は、「青葉」の離脱のために攻撃を一手に引き受けました。
しかしその結果「古鷹」は沈没してしまいます。生き延びた「青葉」は急ぎ呉へ帰投して修理に入ります。ですが、無情にも修理している間に「衣笠」は『第三次ソロモン海戦』で沈んでしまい第六戦隊は解体されます
1隻になってしまった「青葉」は、修理を終えてトラック泊地へ移動、その後ニューギニア島のメウエパセージ港に停泊しますが、4月3日、突如現れた米軍の空襲に見舞われます。そこで投下された爆弾は魚雷に引火してしまい、瞬く間に後部が大炎上してしまいます。このままではたちまち沈没してしまうと判断した艦長は、急遽船体を浅瀬に乗り上げて難を逃れます。
一命を取り留めたものの、「青葉」は再び大破。しかも擱座しているため、この状態で空襲に合えば今度こそおしまいです。その為乗員は「青葉」を島に見立てることにします通称「青葉島」と呼ばれたこの偽装はついにバレることなく、「川内」に曳航されて「青葉」はこっそりと脱出しました。
「青葉」は以降、輸送任務につき後方支援の役割を担います。
この後方支援の相棒は多くが「鬼怒」だったようです。
そんな中、『レイテ沖海戦』のための兵員輸送に従事していると、米ガトー級潜水艦「ブリーム」の魚雷が「青葉」を襲いました。
機械室側部に直撃した魚雷は船体を13度傾斜させ、「青葉」はまたも大破してしまいます。その後どうにか生き延び呉に着きますが修理するにも被害が大きすぎたため、ひとまず放置されることになります。
その後、浮き砲台として満身創痍ながらも奮戦しますが、7月の空襲でついに大破着底、船尾が切断されるほどの被害が発生しました
それから3週間後、日本は終戦を迎えます。
「青葉」は度重なる大破を乗り越えて、ついに終戦まで生き抜いたのです。
船体の状態は修理不可能だったため、翌年には解体されることになりました。

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2024-09-25 08:13:40 +0000