「ジャーニーの勝負服、何度見てもかっこいいよね」
レースの控室。担当であるドリームジャーニーは勝負服に身を包み自分の前に現れた。
「ありがとうございます。私の気持ちを全て込めた衣装ですので」
彼女は微笑みながら鏡前に置かれた椅子に座る。
「それに何度もこの勝負服を着られるのは貴方のおかげですよ」
彼女は鏡越しにこちらの顔を見ながら話す。
「……ありがとう。でも結果を残してきたのは君自身だよ」
昔の自分であればここで「いやいや、俺なんて」と言っていたと思う。その言葉を飲み込むことが出来たのはやはり彼女の影響が大きい。
――己を卑下する言い回しはなさらないで。
彼女に出会ったばかりの時に言われたこの言葉が深く心に残っている。だからこそ感謝の言葉を口にすることが出来た。
「……ふふ、では私たちだからこそ成しえた功績、ということにしましょう」
彼女はこちらに振り向く。椅子に座った彼女はいつもより顎を上げてこちらを見上げる。
レース前にあまり負担をかけるわけにはいかないので近くにある丸椅子を引きよせ腰掛ける。
「……本当にお優しい人」
「ん?なに?」
椅子をギギッと音を立てて引き寄せた時に何か呟いていた気がしたので聞き返す。
「いえ、なにも。ところでトレーナーさん。香水、お持ちだったりしますか?」
「えっ?あるけど」
「私としたことが今日という日に限って忘れてしまいました」
「珍しいね。確かにいつもの香水の匂いがしないわけだ」
目の前にいる彼女に少し顔を近づける。スモーキーな香りがなく柔和な印象を受ける。
彼女は困ったように微笑みながらこちらを見る。
「香水の話を振った私が言うのもなんですが、匂いを嗅ぐ行為はあまりしない方がよろしいかと」
「あっ!ごめんね!」
弾かれるように彼女から距離を取る。
大事なレース直前に不快な思いをさせてしまったと後悔する。
「私は大丈夫です。ですが『他の方には』しないほうがいいと思いますよ」
「気を付ける。ごめんねテンション落ちるようなことしちゃって」
彼女になら大丈夫かという気のゆるみがあったのかもしれない。軽率な行動を取ってしまったことに我ながら情けないという気持ちでいっぱいになった。
「……話は戻りますが香水、お借りしても?」
「あ、そうだった。ちょっと待ってて」
自己嫌悪に陥っていて先ほど言われた香水の件をすっかり忘れていた。
自分は近くに置いていた鞄から香水の瓶を取り出す。
「はいどうぞ」
手渡そうと彼女の目の前に手を出すが彼女は受け取らなかった。
「ジャーニー?」
やっぱりさっきのこと怒っているのかなと思っていると
「私がレース前に香水を付ける理由、お話ししたことあったでしょうか?」
「いや、なかったと思う」
「実は願掛けのようなものでして。平常心、いつもの調子で走れば勝てる。そういった意味も込めて香水をかけています。それはつまりレースに勝つ、という私なりのやる気の上げ方なのです」
思わぬ形で彼女の行動原理を知ることが出来た。このことは覚えておこうと心の中で思っていると
「それを踏まえてですが、トレーナーさん」
いつの間にか彼女が自分の目の前に立っていた。座っている自分より少し上に顔があるという状況。
自分が彼女の顔を確認するために顎を目線を上げ、彼女がこちらを見下ろしている。
「貴方の担当が『やる気になれる』と思うところに香水を、かけてください」
そう言って彼女は静かに左手を持ち上げる。
細い指先にゴツゴツとしたリングやフィンガーアクセを付けていて、更に赤のマニキュアで爪を塗っている。
普段の彼女の手からは想像できないほどの装飾がなされている。
そんな煌びやかな指先の中、指輪やアクセを付けていない指に視線が向く。
左手薬指。
唯一装飾のされていない彼女の白い指から目を離せなくなっていた。
プシュッ。
気が付けば自分はその薬指の付け根部分に香水を吹きかけていた。
「……ふふふ」
彼女の笑い声が聴こえる。
その声はいつもの静かなものではなく、出さないようにしていたのに我慢できず漏れ出てしまったような笑い声だった。
「トレーナーさん」
優しい声が響く。
「貴方は何故『ココ』にかけようと思ったのですか?」
彼女は手の甲をこちらに向け、左手薬指が見えやすくなるように指と指の隙間を大きく取る。
「えっと……だってジャーニーが左手出してきたから……」
「たしかに私は左手を出しましたが『手の甲』や『手首』といったかけやすい部位がありますよね」
半歩、彼女が近づく。それだけで圧迫感が増していく。
「答えていただけますよね」
自分は今、目線を逸らしている。彼女の瞳を直視してしまっては心の声を全て吐露してしまうと思ったからだ。
多分だが自分の頬はかなり赤くなっているのだろう。耳まで熱くなっているのを感じる。
「……ジャーニーが」
恥ずかしさで震えながら声を出す。
「レースで勝ったら、教えてあげる……」
沈黙が流れる。漂うスモーキーな香りも沈殿していくようなそんな空気感に包まれる。永久に続くのでは思っていると
「誠実で潔白な貴方らしくない。全く、誰に似てしまったのか」
その声は楽しそうにも聞こえる。クスクスと笑う彼女の声に思わず顔をあげる。その表情はリラックスしたもので、心から笑っているように見えた。
「……や、やる気は出た、かな?」
彼女はひとしきり笑った後こちらを見る。
「ええ、それはもう。こんなことをされてしまっては……『絶対に勝つ』しかありません」
眼鏡越しにこちらを射抜くような視線が降り注ぐ。
目が据わっているのに異様に口角が上がっている表情は恐ろしいと思ったのと同時に
美しいとも感じていた。
直後、控室のドアがノックされる。
「ドリームジャーニーさん、間もなく出走時間です。準備をよろしくお願いします」
スタッフがドア越しにこちらに声をかけてくる。
「ではトレーナーさんまた後ほど」
そう言って彼女はこちらの左手を持ち上げる。
彼女は左手薬指をこちらの左手薬指に擦りつけていた。
「今日の走り、目に焼き付けてくださいね」
ゆっくりとこちらの手を放しドアへと向かう。
バタンとドアが閉まる音を背中越しに聴く。
一人きりになった控室。
自分は左手を鼻の前へと持っていく。
スモーキーな香りが左手薬指の付け根からほのかに立ち込めていた。
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novel/22706122
2024-08-04 10:00:06 +0000