ライスシャワーは、たまに「あの人は自分が結婚する相手で本当によかったのだろうか」と考える事はある。
……何も、夫に不満があるわけではない。自分の夫が素晴らしい人間なのは疑いようもないし、すでに20年近く連れ添った仲だ。それまでに大喧嘩の一つや二つも当然あったが、それでも二人……途中から娘も含めて三人で仲良く暮らしてこられた。
夫を心から愛しているし、夫も自分を深く愛してくれていると感じる事はある。
けれどたまに、本当にたまに……その愛情に、僅かな不安が過ぎる事がある。
あの人には、もっと、相応しい人がいたのではないだろうか。
あの人には、もっと、相応しい人生があったのではないだろうか。
そんな不安が、どうしても頭を過る事がある。
「どうしたの? お母様」
今年で11歳になるライスシャワーの娘が、心配そうに母の袖を引く。
「ううん、何でもない。ごめんね、心配かけちゃって」
そう言って娘の頭を撫でるライスシャワーの顔は、いつもの優しい母の笑顔だった。
だけれど娘は、今日に限って「むむむ」という顔をしながら、母を見上げる。
それは、娘が何かを思い付いた時にする癖だった。
「お父様の事?」
ライスシャワーは、目を丸くした。
よく見ている娘だ。まさか見抜かれるとは、思いもしなかった。
しかし娘は、そんな母の反応に満足してか、嬉しそうに胸を張った。
「お父様の事を考えているお母様は、いつも切なそうな顔をするの!」
ライスシャワーは、「えぇ!?」と素っ頓狂な声を返してしまう。
そうして間を置いて、しばらく二人で笑う。
自分の事をよく見ている娘だ。そして、同じように"お父様"を慕っている娘だ。
だからライスシャワーは、少女漫画に出てくるコイバナを冗談っぽく演じるように、ライスシャワーは言った。
「たまに、思うんだ。お父様の心を、私が縛ってしまったんじゃないかって」
娘が、一瞬、きょとんとする。
「お母さんはね、あの人の生徒だったんだ」
「うん、知ってる。トレーナーさんだったんでしょう?」
「そう。お父様がトレーナーさんで、お母さんはトレセン学園でレースに挑んでいたの」
それを受けた娘が、得意げな顔をする。
「知ってる! お父様がね、『お母様はすごいウマ娘だったんだ』って、寝る前に聞かせてくれた事があるから覚えてる!」
ライスシャワーは、またぎこちない微笑みを浮かべてから、話を続ける。
「うん……でもね、お母さんはその時期にお父様をとっても心配させちゃってたんだ」
マックイーンとの激闘を思い返す。あの試合の時は、文字通り死力を尽くしたせいか、長期間体調を崩した。
あの人は、その時にほとんど付きっきりの状態で自分の体調を心配してくれていた。
だから、その恩義に報いる為にも宝塚記念という大舞台にすら挑む勇気をもらえた。覚悟を決められた。
……今思えば、あの時点から、あの人の人生を縛り付けてしまっていたのかもしれない。
「だから、たまに思うんだ。私が、もっとちゃんとしてたら……それ以降も私に付きっきりじゃなくてもよくて、別の人生を歩めていたんじゃないかって」
ライスシャワーのそんな言葉を聞いて、娘は少し難しそうな顔をした。
「別の人生?」
自分の言葉の意味を、娘にはうまく伝わらなかったのかもしれない。
だからライスシャワーは思っている事をそのまま言った。
「えっとね。こう、お母さんよりステキな奥さんを見つけたり……?」
「それじゃあ、わたしが産まれて来ないよ!」
娘が、悲しそうな顔をする。ライスシャワーは、あわあわと慌てて言葉を付け足した。
「ち、違うの! 今のは例えの話で、つまり、ええと……あなたがライスの元に産まれてきてくれた事は、まぎれもなく、とってもステキな事で!! それが間違いだなんて思った事は、ホントに一度も……!!」
娘は悲しそうな顔をすぐにやめて、イタズラっぽく笑顔を見せた。
「えへへ……分かってるよ。"ライス"お母様」
そう言って、娘はライスシャワーに抱きついてきた。
……あの人に似たのか、はたまた自分に似たのか、この子はちょっとイタズラっぽいところがある。
ライスはそう考えながら、優しく抱き留める。もうそこには悲しみの影はなく、いつもの優しい笑顔が浮かんでいた。
「でも、お父様が他の女の人を奥さんにするだなんて、わたし考えつかないなぁ」
娘はライスシャワーに抱きついたまま、そう言った。
そして、娘がライスに抱きつくのをやめたかと思うと、今度はライスの横に座った。
ライスシャワーは成人女性としてはあまり背が高くないせいか、娘ともそう座高の差はない。少し見上げてくる娘と、ライスシャワーは顔を見合わせた。
「だって、お母様と一緒にいるお父様は、毎日とっても幸せそうだよ?」
娘はそう言って、嬉しそうに笑う。
「だから、他の女の人と付き合ってるお父様の事は考えなくてもお母様はいいの。わたしから見ても、お母様はステキな女性だもの!」
…………最近、昔の体型を維持出来ず太ってしまったが、それでもステキな女性と断言出来ていいものだろうか。
ライスシャワーの頭の中にそんな不安はあるものの、話の腰を折るわけにもいかず。ただ、娘の言葉に同意するのみである。
「そ、そうだよね。考えすぎ、だよね」
「うん! それに、私がずっと傍にいるから安心して、お母様!」
笑顔で断言して、ちょこんと頭を優しく撫でてくれる娘の言葉に、ライスシャワーも微笑み返した。
まるで立派に成長してる自分の姿こそが、お母様が愛されている証だと言わんばかりに自信満々なのだから、微笑ましくないわけがない。
――私がずっと傍にいるから安心して。
……笑顔を浮かべながら頭を撫でてくれる仕草は、やはりあの人に似ていた。
「お母様。わたしもお母様に相談したい事があるの……」
ひとしきり撫で終わると、娘がそわそわとした様子でこちらを窺う。
自分と同じように、好きな男の子でも見つけたのだろうか。
そう思いながら、笑顔で「うん。お母さんが何でも聞いてあげるよ?」と話を促す。
娘は、まるで恋の告白でもするかのような恥じらいを見せながら言った。
「わたしね。お母様のように、中央トレセン学園に行きたいの!」
ライスシャワーは、ぽかんとした。
てっきり好きな男の子が出来たから相談されるのだろうと思っていたせいで、娘の言葉に驚きを隠せない。
しかしすぐに冷静になると、娘は自分に対して嘘や冗談を言える子ではなかったと思い直す。
そんな娘が言うのだからきっとそれは本気なのだろうし、何より自分も中央トレセン学園に通っていた身だ。
「え、あ、え、ど、どどど、どうして?」
ウマ娘として走りたい気持ちはあるものだろうが、それでもその告白には動揺を隠せない。理由を聞いた。
「わたしも、お母様みたいに走りたい!」
娘が目を輝かせながら、そう告げる。
「それに、お母様にとってのお父様みたいな"ステキなトレーナーさん"と、出会えるのかもしれないし……」
絵本に出てくる『白馬の王子様』に憧れる女の子のような事を言う。
ライスは、どう応えたものかと思い悩むしかなかった……
2024-07-17 11:54:33 +0000