獅子心王の庶子フィリップ

武原旬志

フィリップ(ド・コニャック)
1190年以前~1201年頃
獅子心王こと、イングランド王リチャード1世の庶子で実在した人物。

彼はリチャード王の愛人の子どもでした。愛人はアキテーヌ貴族のどこぞの娘であるとだけ伝わっています。私生児との説もありますが、リチャード王に目をかけられた記録があるので彼は認知された庶子だったと言えます。
というのも、彼は1199年頃には成年に達してコニャック城の跡取りであるアメリー・ド・コニャックと婚約(結婚)しました。これを取り計らったのはもちろんコニャックがあるアキテーヌ地方の主・リチャード王でしょう。
また城持ちの貴族と結婚するためには、騎士爵以上の爵位を持っている必要があります。なので当時、フィリップは騎士身分でありコニャック城を手に入れる許可を父リチャード王から得ていたと考えられます。

しかし王位継承権はありませんでした。
1199年に父リチャード王が死亡し、王に嫡子がいなかったにも関わらず、フィリップは後継者候補に上がっていません。
これは当時の貴族のモデルケースとしても重要で、1066年にノルマン・コンクエストを成し遂げた征服王ウィリアムは庶子にも関わらずノルマンディ公にもイングランド王にもなりました。
彼らは大きな括りで皆ノルマン人でもあるので、この130年の間に王位につける者の線引が明確になされたんじゃないかと思われます。

さてフィリップはアメリーと婚約しましたが、すぐに病死してしまいます。コニャック城を手に入れることができませんでした。
当時の結婚は、嫁が領土を持っていてもそれが夫のものになることはありませんでした。一応嫁に代わって領地の経営はできます。子を残した場合は子に領土が継がれ、夫はその摂政(代行者)を名乗ることができますがやはり夫の領土にはなりません。
つまりフィリップはアメリーと子を成せないまま死に別れ、継ぎ手の無くなったコニャック城はしばらくその地の王領代官(セネシャル)が管理しました。
フィリップは、フィリップ・ド・コニャックを名乗れませんでした。

その後すぐにリチャード1世も死亡。父王という後ろ盾を失った彼は、とくに名を上げることも領主として名を残すこともなく1201年のパイプロールで次代ジョン王からわずかな報酬を授かった記録だけ残し、痕跡はそこで途絶えています。

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2024-06-19 12:46:05 +0000