誕生日艦紹介#10 軽巡洋艦「酒匂」

時雨光
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誕生日艦紹介も今回でなんと10回目!この調子でドンドン投稿出来るように頑張ろうと思います。皆様いつも応援ありがとうございます。本当に感謝しております。m(*-ω-)m
さぁ。と言うわけで記念すべき10回目を飾る艦艇は軽巡洋艦「酒匂」です!!
それでは解説に移っていきましょう!

軽巡洋艦「酒匂」
軽巡洋艦「酒匂」を一言で言うならば『帝国最後の軽巡は戦知らず』ですかね?
「酒匂」は『阿賀野型』の四番艦として起工される訳ですが、元々誕生が遅かった「阿賀野型」の中でも最も遅く誕生した「酒匂」は三番艦の「矢矧」の竣工からなんと1年も後に竣工しています。「酒匂」は1944年4月9日に進水し1944年11月30日に竣工した訳ですが、1944年末は、もはや「レイテ沖海戦」すら終焉し、帝国海軍は壊滅状態、軽巡1隻でどうこうできる状況ではありませんでした。
竣工後の12月11日、「酒匂」は第十一戦隊水雷戦隊の旗艦に就任するのですが、この水戦は訓練用に編成されたもので、戦場に赴くことはなく、そもそも戦場に赴ける艦艇もごく僅か、燃料も枯渇寸前だったため、主に瀬戸内海での航海が続きました。
この時期はまだ本土の危機は大きくなかったわけですが、駆逐艦や海防艦の喪失は激しく、狭いものの瀬戸内海という安全な海域でなんとか応急的にも戦力にする必要があったのです。
そんな平和な時を過ごしていましたが戦争は末期戦。1945年3月「酒匂」にも実戦の機会がきます。『天一号作戦』…「大和」を含む多くの名艦が沈んだ沖縄への特攻です。
「酒匂」は姉である「矢矧」と出撃準備を行いますが幸か不幸か、作戦直前に「酒匂」の出撃は中止されてしまいます。
特攻ということで、参加する艦は帰還が前提とされていません。
いくら敗戦濃厚とはいえ、竣工間もなく「酒匂」をわざわざ敵にくれてやる必要はないという判断だったのかもしれません。
一方で、まだ実戦の経験がない「酒匂」に砂漠の中の水滴に等しい燃料を搭載して、無駄にすることを嫌った可能性もあります。
(現に当時の日本には戦艦として「伊勢」「日向」「長門」「榛名」が残っており燃料さえあれば彼女らも特攻に行かされていたかもしれません)
しかし結局この2隻は燃料不足で「大和」最期の戦いにも付き添うことができませんでした。
燃料配分は「大和」を中心として考えられ、残りは比較的燃料が少量で済み、かつ沖縄までの道中を突破できる歴戦の艦船・兵士で水雷戦隊を構成したと考えられます。

その後は、一大軍事拠点の呉に米軍の航空機が押し寄せてきます。日本随一の港である呉を機能不全にさせる為に呉への空襲と機雷敷設を重点的に行います。
やがて呉軍港空襲は頻繁に行われるようになるわけですが、「酒匂」はその前に貴重な燃料をこの時ばかりはしっかり使い、5月21日、「酒匂」は「柹」「菫」「楠」「櫻」「楢」「欅」と一緒に関門海峡を抜けて舞鶴港へと向かいました。
途中「櫻」「楢」「欅」は門司港にて離脱しています。
しかし舞鶴も当然ながら日本海側の軍港の中心ですから、アメリカのターゲットであることに変わりありません。
舞鶴には太平洋戦争の生き証人である「雪風」「初霜」がいましたが、舞鶴に到着した27日の時点ではすでに呉と同じく【B-29】の姿がたびたび目撃され、また機雷も投下され始めていました。
結局軍港に安全な場所はなく、「酒匂」らは早くも近隣の福井県小浜湾へと避難しました(「雪風」「初霜」は宮津湾へ)。

ところが航空機からしてみれば目と鼻の先である小浜湾は避難所としては大きな役割を果たせず、月末には小浜湾にも機雷投下や機銃掃射が行われるようになります。民間人の被害を避けるため結局7月に舞鶴に戻り
7月15日、もはや有名無実と化していた第十一水雷戦隊の解隊も決定され、「酒匂」は特殊警戒艦として舞鶴を最後の地とするべく出撃の準備に入ります。
燃料はもう重油すらなく、大豆油を使っていました。
出港当日の7月19日。どうにか敷設されてる機雷を生き延び。小浜湾を出ることに成功しますこの際港内ではなく、港の向かいにある佐波賀に「酒匂」は繋留され、対空兵器は陸揚げし、木々や草などで擬装を施しました。
そしてこの最たるものが7月30日の「宮津空襲」です。
「酒匂」が沈黙を守る中、『雪風』「初霜」「長鯨」らが退避しながらも必死に応戦しました。
しかし「初霜」はこの最中に触雷し大破、「長鯨」も艦橋に被弾しています。
強運の持ち主である『雪風』はこの戦いでも大きな被害を負うことはありませんでした。
8月15日、太平洋戦争は大日本帝国の敗北という形で終結しました。
「酒匂」は遂に実戦を経験せず、訓練中に遭遇した【B-29】への射撃のみでその役目を終えます。
「酒匂」は終戦後、約半年間特別輸送艦として「鳳翔」らとともに兵員の帰還のために働きました。
当然武装は解除され、居住区などが整備されて釜山や台湾、ニューギニアなどと日本を往復しました。
釜山⇔函館の往復の際は、日本で働いていた韓国人が艦内で戦勝を叫んで士官室などを韓国人に開放するように要求してきました。
戦勝(韓国は戦勝国じゃないですけど)戦敗如何によらずそのような要求を受けることは当然できないため、ここで揉め合うことになってしまったのですが、やがて船が時化に遭遇すると艦内の状況は一変します。
兵士たちは多少の時化で酔うほどやわではありませんが、陸での従事者である韓国人にとってはそれはそれは激しい揺れだったため、船酔いで艦内は汚物まみれとなってしまいます。
この時に食料として搭載していたキャベツが紙代わりに使われたことで、後甲板は汚物とキャベツの山となってしまい、敗戦国の成れの果てを象徴するような光景でした。

1946年2月、「酒匂」は特別輸送艦の任を解かれますが、「酒匂」の最期は非業なものでした。
「酒匂」は「長門」とともに、核兵器の実験「クロスロード作戦」の標的艦とされ、米軍に接収されてしまいます。
7月1日の「クロスロード作戦」当日、「酒匂」は第一次実験「空中爆発」の際、爆心予定地からおよそ600mほど離れた場所で浮かんでいました。
しかし投下場所は予定地から逸れ、無情にも「酒匂」のほぼ真上で爆発してしまいます。
「酒匂」よりも爆心地に近かった米兵員輸送艦 「ギリアム」は瞬時に沈没。
しかし「酒匂」は艦上のあらゆるものが薙ぎ払われ、艦尾が粉々に粉砕されながらも持ちこたえます。(「長門」と言い本当に日本の艦船は戦後でも驚かれる程、質の高い艦艇が多く誇りに思います。)
ところが核爆発による熱線が生み出した炎は消えることがなく、「酒匂」は1日中炎に包まれてしまいます。

翌日、米軍は被害状況の確認のために「酒匂」の曳航を試みます。
しかし曳航索が繋がれて曳航が始まるや否や、「酒匂」はその行為を拒むかのように船尾から徐々に沈没していきました。
幸い曳航索は切断ができたため、曳航していた「アチョウマイ」は沈没に巻き込まれずに済んでいます。

「酒匂」は今も「長門」とともにビキニの海で眠っており、ダイビングスポットとしてダイバーたちを楽しませています。実戦こそはありませんが、戦後も日本を支え続けた艦艇でした。

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2024-04-09 12:18:45 +0000