重巡洋艦「最上」
「最上」を一言で言ってしまえば"最強だけどめっちゃ不運"この一言につきます
まず、「最上」は「高雄型重巡洋艦」の後継として、「高雄型」の問題点を改善する目的で造られる予定でしたが。"ロンドン海軍軍縮条約"の締結に伴い。今まで巡洋艦と言う大まかなくくりで制限も緩かったのに対して、重巡洋艦と軽巡洋艦に分別され、重巡洋艦には保有制限がつきました。米英10:日本6。隻数にすると日本は12隻しか重巡洋艦を持ってはいけない事となりました。では、当時の日本の重巡洋艦(一等級巡洋艦)の隻数を見てみましょう。「古鷹型」2隻、「青葉型」2隻、「妙高型」4隻、そしてすでに建造中である「高雄型」4隻………ん?12隻…
はい。そうです。日本は条約締結と同時に新たな重巡洋艦の建造を1937年の条約の終了期限まで出来なくなってしまいました。
ですが、嘆いていても何も進みません。戦艦の建造が禁止されたら重巡洋艦を建造したように、重巡洋艦の建造がダメなら制限の緩い軽巡洋艦を造ろう!と言うことになります。
こうして、軽巡洋艦として「最上型」の建造が始まります。とは言え重武装化に伴い。計画していた排水量を越え。1000t追加することとなり、計画基準排水量9500tになりました。
こうして、起工されるのですが。性能は重巡洋艦に勝らずとも劣らず。軽巡洋艦として見れば最強と言うものでした。
ですが、ここから「最上」の不運は始まります。まず「友鶴事件」による。トップヘビーの改修に伴い。甲板上部構造物の撤去や艦橋の縮小が行われます。これにより計画初期の艦橋の半分以下となってしまいます。また、速度も2ノット低下し35ノットに。
なんやかんやあり、竣工した後も不運は続き演習に参加すると、元から台風が来るのは分かってたもののそこまでの規模ではないだろうと、演習を決行。すると稀にみるヤバい台風で演習に参加した艦艇が次々と損傷。俗に言う「第四艦隊事件」です。「最上」も船体に亀裂やシワができました。
強度の問題も「第四艦隊事件」で露になった為に、再びドッグ入り。そこで諸々やった結果。排水量が大増加。もう条約内での排水量に収まらなくなりましたが、当時の日本は条約の延長に同意するつもりはなかった為。特に問題はありませんでした。
そして、主砲も軽巡洋艦用の15.5cm三連装砲から20.5cm連装砲へと換装し、名実共に重巡洋艦となりました。
その後、大東亜戦争が勃発。南洋諸島への輸送のため。輸送船を護衛していたのですが。敵の巡洋艦を発見、沈めることに成功します。ですが敵の巡洋艦を狙った魚雷が、まさかの味方の輸送艦と陸軍の揚陸艦「神州丸」に被雷。味方輸送船を沈めてしまい。「神州丸」も大破と言う事故を起こしたりしつつ。戦争を支えます。その後ミッドウェー海戦にも参加しますが。主力空母部隊を「蒼龍」以外失った連合艦隊は、夜戦で敵の機動部隊を叩くことに、「最上」が所属している第7戦隊もミッドウェー島へ向かいますが。「蒼龍」も沈んでしまった為。撤退命令が出ますが、第7戦隊に届くのが一番遅く。ミッドウェー島の近くまで来てしまっており。方針転換。北北西に向かい連合艦隊との合流を目指すのですが。米潜水艦「タンバー」に見つかってしまい。通報されてしまいます。幸い、第7戦隊の旗艦である「熊野」も浮上している敵潜水艦を発見した為。奇襲は防げましたが。「熊野」は雷撃されるのを防ぐため左45度一斉回頭を2回、つまり90度の回頭を命令します。
ところがこの命令が非常にまずく、1回目は信号灯で、そして短時間で無線電話による2回目の命令が行われました。
「熊野」の後に続いていた「鈴谷」は、同じ命令が違った方法で飛んできたことに混乱します。
そうこうしているうちに「熊野」は45度回頭し始めたため、「鈴谷」もそれに続きます。
が、「熊野」はさらに45度グイっと曲がり始めたため、「鈴谷」はこのまま同じように左に舵を切ると衝突すると咄嗟に判断し、舵を思いっきり右に切りました。
何とか「鈴谷」は衝突を免れましたが、隊列からは外れてしまいます。
次に「三隈」ですが、「三隈」も同様に回頭角度がはっきりしていないままでした。
そして「三隈」はどんどん曲がってくる1つ前の「鈴谷」(実際は「熊野」)と衝突を避けるために今度は同じように左へと舵を切りました。
そして最後の「最上」。
「鈴谷」と「三隈」が進路上から見えなくなり、見つけた艦影とは結構距離が離れていることがわかりました。
「最上」は最初左45度回頭、さらに独断で左25度回頭して安全な位置、距離を取ろうとしていました。
ところがいつの間にか「三隈」との距離が離れてしまい、距離を縮めないとと考えた「最上」は、右25度回頭をして隊列を立て直そうとしました。
そこへ突然右舷から突っ込んできたのが、「最上」の視界から消えていた本当の「三隈」でした。「最上」が距離を詰めた相手は、先頭の「熊野」だったのです。
「最上」の進路を大きく塞ぐように横断してきた「三隈」に、「最上」は急ブレーキをかけますが間に合うわけもなく衝突。
被雷したと思ったほどの衝撃で、「三隈」の左舷につっこんだ「最上」の艦首は完全にひしゃげていました。
幸い「タンバー」は魚雷攻撃をしてこなかったために事なきを得ますが、「最上」は14ノットの速力が限界となります。
そして、夜も明け。米空母「エンタープライズ」「ホーネット」からの空襲が始まります幸い6日は特に被害はありませんでしたが。7日に「最上」は6~7発を被弾し。砲塔が吹き飛ぶ事態となります。どうにか生き残り、トラック島で「明石」から応急処置を受け。佐世保まで帰投します。ですが「最上」は満身創痍状態で損害も酷いです。
そこで、日本は「最上」を航空巡洋艦にすることを決定《零式水上偵察機》を最大11機搭載できるようにして。艦隊の目として運用することにします。1943年4月末。「最上」は航空巡洋艦への改装を終えました
航空巡洋艦となった。「最上」は"マリアナ沖海戦"等に参加しますが捷一号作戦に西村艦隊の一員として参加し。奮闘を見せるも西村艦隊の船は相次ぐ空襲と砲撃により。次々と沈み。「最上」も明け方まで耐えるも。志摩艦隊が護衛に駆けつけた頃には艦橋も全てがひん曲がってボロボロ。「もう沈むだろう」と言われるほどの有り様でした。どうにか600人の生存者を救出した後。まだ「最上」には暗号がそのまま残っていましたが。通信科が先の戦いで全滅してしまい。処分できなかった為。訓練通り、駆逐艦「曙」が魚雷を発射し。見事、右舷中央部に命中させます。その時持ち上がった艦尾には、「最上」を動かすには至らずとも、1軸だけ無事だったスクリューがまだ日本を目指して回り続けていました。
【最上】沈没。
スリガオ海峡海戦の最後の犠牲者でした。
最強の軽巡として生まれ、アメリカを驚かせた重巡化改装、そして「利根型」に見た巡洋艦の未来を反映させた航空巡洋艦。
波乱万丈な艦生を送った「最上」ですが。帝国海軍を支え、祖国を最後まで守った美しき防人であったことは間違いありません。
2024-03-21 16:01:40 +0000