輪廻転生

斎藤さい

輪廻転生(You are what I was and what I will)

 なぜわたしは他の何者でもなく「私」であるのか。目の前の別の人物であってもよかったし、他の生物種でもよかったはずなのではないのか。なぜわたしは「今」この時を生きているのであろうか。今より遠い過去でも未来でもよかったはずではないのか。あるいはそのような可能性もあったのではないのか。このようなことをわたしは幼少期から考えることが多々あった。わたしがこの宇宙で意識を持って生きるたった一人であるような気がしており、家族や友人はいかにも意識があるらしい振る舞いをしているだけなのではないかと考えるようになった。しかし他者に意識がな いことを証明できないため、一旦他者にも本当に意識があると仮定したとき、先に述べたなぜわたしは他の何者でもなく「私」であるのかという疑問に立ち戻ってしまうことに気が付いた。そして わたしはある仮説に辿り着いた。「私」はわたしとして産まれ、生き、死に、そののちに時間が巻き戻るか進むかして他者としてまた産まれる。それを繰り返すと全ての生き物には意識があることが必然となる。この仮説を得てわたしは宇宙に独りぼっちではなくなった。他者の意識の存在も 信じる価値のあるものとなった。宇宙開闢以来の全ての意識は「私」であったと結論付けることができる。隣人もまだ見ぬ人たちも犬も猫も全てが過去あるいは未来の「私」ということになった。あるときは遠い未来の、あるときは何億年も前に生きた意識を持っているあるいは持っていたであろう存在にまで親しみを感じた。
 小学校時代にこの仮説に至り、確か中学時代だったか、渡辺恒夫の著書『輪廻転生を考える』に出会った。そしてそこにはわたしの仮説に似たことが書かれており大いに衝撃を受けた。渡辺によると同様の考えを小説や漫画の形で表現している人物も複数確認できるそうだ。わたしだけではなく紛れもない他者が意識の孤独を感じ、他者の中の意識を疑い、意識の転移を提唱している。かつてのわたしと同じことをしている。これによりわたしの幼い仮説がよりはっきりとした輪郭を帯びてくるのを感じた。ここまで来てもまだ「私」以外の他者は意識のあるふりをしているのではないかという疑念は完全には拭えないが、わたしの確信する意識というものにかなり近いものを他者も持っているとは言えるのではないだろうか。
 卒業制作では、ここまでに述べた仮説に基づき、全ての意識は過去あるいは未来の「私」であるというテーマを扱った。画面下部には細胞や単細胞生物といった小さな生き物を、中間部には古生物や絶滅した生物を、上部には現生生物を配置することで、画面の下から上に時間の流れ を意識させるようにした。さらに背景は細い筆致を縦方向に残すことで同じく時間の流れを表現した。すべての生き物が「私」であり主役となりうるため、詳細な写生をおこなった。一部は骨格標 本や復元図を参考にした。中央に配置した人物はかつては何者かでありこのあとも何者にでもな る可能性がある「私」という存在であるため、特定の誰かに似せるのではなくデフォルメして描き、色はあえて真っ白にすることで異質さと唯一性とあらゆる可能性を感じさせることを狙いとしている。人物の首元のタイにのみ赤で着彩し、宇宙のすべての存在との結びつきを表している。エイはジュラ紀から存在したとされているため、画面中央部から下部にかけて大きく配置しアクセントとした。人物より前に出すことで画面に奥行きをもたせるとともに、優雅に泳ぐ姿から「流れ」を意識させている。

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2024-03-19 09:26:01 +0000