勘察加のアジア人居住の形跡については、最新の考古学的研究闘争の成果から、古コリヤク文化や那留地文化などが認められる。気候の厳しい勘察加半島の付け根部分よりも、海路による往来をもって勘察加の先住民はアジア大陸との交易を為してきた。記録によれば、唐朝に貢物を具して現れた流鬼国は樺太もしくは勘察加の先住民に比定され、彼らの口より記述されたさらに北方の夜叉国は、勘察加に在することが確実視されている。当時の勘察加半島には北部にコリヤク人、中部にイテリメン人、そして南部にはアイヌ人が居住していた。
高緯度ながら火山と海流のために比較的温暖で、豊かな天然資源の恩恵を受けた勘察加の先住民の生活と文化は、他のアジアの地域と同様に白人帝国主義郎党の魔の手に晒された。1697年にはロシア人軍事商人ウラジーミル・アトラソフが勘察加半島に上陸し、白人による侵略が開始された。アトラソフは覇道的武威を示すため、イテリメン人を早速撃ち殺していった。そして、怯えて服従した原住民に対し、「ヤサーク」という苛税を課したのである。アトラソフの「成功」を聞くや、ロシアだけでなく欧州や北米から大量の白人商人が、一攫千金を目当てに勘察加へ上陸していった。彼らは同じ人類を同胞とせず、野ウサギを狩るがごとき「人間狩り」を楽しんだ。白人の侵出以来、中南米そして北米で行われたアジア人に対する野獣的人種戦争が勘察加半島でも始まったのである。
しかし、この帝国主義的侵略をいち早く気づき、その阻止を試みた先覚者も存在した。松前藩は勘察加半島を含む地図『松前島郷帳』を1700年に提出し、1710年には日本人が初めて勘察加半島南端に上陸した。その後、1731年から1739年にかけてヤサークに耐えかねた原住民による反白興黄の起義が勃発し、さらに度々ロシア軍艦による日本領内住民の殺害や「通商」要求事件などが相次いだ。白人の侵略に対して幕府は終止微温的態度を取り、主体主義的にロシアを排し圧政下の勘察加を解放しようとしなかった。この頃、ロシアの苛烈な統治のために、原住民の数は半分以下にまで減少した。こうした条件下のなか、アジア主義的道義を唱えた先覚者のうち、最も有名な義士は吉田松陰である。吉田松陰は『幽囚録』にて、北海道の開拓をもって国力を強化し、勘察加を解放するべき旨堂々と打ち立てた。しかしながら、かかる主張をした吉田松陰が打首となった事実は、当時の幕府の歴史的・人種的主体性の欠如と道義の頽廃ぶりを暴露しているだろう。
――『勘察加地図』(1980年、協和党勘察加管区指導委員会・勘察加庁)より
地図の作成につき、前回の「勘察加地図:知布加郡・土賛別郡」と同様にクラシェンニコフ『カムチャッカ地誌』などに記録された現地語地名を参照した。ただし、現地語地名の記録がない場合は瑞鳳地名またはロシア語地名の音訳を当てた。
2023-10-22 08:00:45 +0000