顔も知らぬ僕の実の母親と僕が生まれるその年、セントルイス万博にて

入笠カメリア

小河原勉は、明治37年1月1日生まれ。産みの両親の名は小河原庄五郎と小河原アグ。アグは赤痢と結核を患っており体はボロボロ。化粧と厚着で健康な女性を装っていた。しかしこの後、彼女は勉を生んですぐに亡くなってしまう。

アグは、女学校時代から親友だった平出艶子という女性が、自分の夫のことに好意を持っていた事を知っていたために

「わたくしが亡き後は、庄五郎さんと勉の事を宜しくお願いします。あなたでしたらきっと、勉を愛して育ててくださると信じております。また決して、勉が大きくなっても、実の母親の話はなさらないでください」と遺して逝った。

アグは当時は京都一の美人と評判で、庄五郎の親友・瀬戸内喩三郎の妹だった。庄五郎がアグを娶ったときは周囲の男性陣に恨まれた程だ。

女性たちはアグを妬んで「あんな貧しいパン屋の娘が小河原さんの様な会社の社長に嫁ぐだなんて、財産目当てなのよ」と陰口を叩かれる

当時、日本ではピアノブームで富裕層には高いピアノがとても売れて、ピアノ産業はとても潤っていた。しかもそのピアノの値段も今の倍以上…数倍は高い。庄五郎の経営する「ブルクハルト」も例外ではなく、今やこの会社で作られるピアノは他のどこも作れない、世界最高峰のピアノと世界中から人気なのである。その作り方も企業秘密で制作方法は誰にも明かしてはいない。

「セントルイスで会いましょう」アグと庄五郎の勉が生まれるまでの話のアニメーション。

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2023-09-19 01:36:06 +0000