「北方を固めて備えねばなりません。勘察加はアラスカに至るアジア人種の歴史的進出路にあると同時に、アラスカより襲来する白人種の進軍路でもあります」( 永 仁 )
知布加郡と土賛別郡は勘察加半島南端に存在し、日本人入植者を多数受け入れている。産業は漁業が中心ではあるが、温泉熱を利用した農業や畜産業などが一部散在し、亜紗茶には金鉱を有している。
勘察加は白人種たるロシア人による侵略のため、資源収奪とアジア人種たる原住民の搾取にて荒廃し、勘察加半島の美しい花鳥風月を象徴する原住民地名も無機質な侵略者のものに書き換えられた。大東亜戦争の結果として日本の領有に至った勘察加では、漸次地名のアジア化がなされ、アイヌ語、イテリメン語及びコリヤク語の固有名を有した地名は白寇侵略前の美しい地名に復された。この他、アジア人の地名が見出されなかった少数の辺境地や入植地については、ロシア語地名を音訳したり全く新しい日本語地名を名付けたりしている。
いま、勘察加はアジア人の手に復して久しく、アジア人の手で耕され、アジア人の手で建設されている。偉大なる指導者の恩徳と党の指導の下で、子孫万代の楽園を築くアジア人種の闘争の戦列に、主体勘察加もまた旗幟を掲げて加わったのである。
――『勘察加地図』(1980年、協和党勘察加管区指導委員会・勘察加庁)より
2023-09-09 04:33:43 +0000