紀元前206年“戦いのアルス”

Legionarius
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マルクス・ユニウス・シラヌス「おや、今日はだいぶお早いお目覚めで。まだ夜明けまでだいぶありますが」
プブリウス・コルネリウス・スキピオ「そろそろと思ってな……」
ルキウス・マルキウス「一週間、お心が決まったと」
スキピ「収穫の頃合いだ。君らは薄々私の考えに気づいているだろうが、直前まで秘する必要があったからな。古より敵を欺くには味方からという。これから話すことを直ちに上級将校達へ通達しろ。まずは全軍を起こせ、静かにな。それから軽装兵の攻撃を開始する。前哨を撫でるように丁重な朝の挨拶をしてやれ、粘り強く、しかし深入りする必要はない。敵を引き付け、拘束し、選択肢と判断力を奪う……寝起きの我が軍は少々多目の朝飯を速やかに済ませるように、無理してでも詰め込めとな。悪態を吐く者も遠からず私に感謝することになる。ここ数日間、我々は毎日同じ時間に同じ配置の布陣を繰り返し、対峙して戦機を探り、日没と共に陣営へ退いて互いの手の内を明らかにしてきた。だが今日はそれを違える。中央にはローマ軍ではなくヒスパニアの同盟軍を、君達が左翼、私が右翼でローマの戦士を率いる」
シラヌス「底意地の悪い笑みが零れそうですな。しかし、カルタゴ人も疑いはしないでしょうか」
ス「士気も高く、毎朝我々よりも早く展開して見事な布陣を見せる、カルタゴ人の目を瞠るほどの習熟ぶりよ。習慣と慣熟は人間を強力に拘束する。日が昇り、顔を洗い、慣れ親しんだ仕事に着手する。明日も同じように過ごせることを疑う者は少ない。
継続は人間の長所でもある。いや、蓋然性や必然性を都度疑ってかかる者などむしろ何らかの病であると言えよう。習慣と連続性は文明の発展を促す。ただ……ときに強みは陥穽となる。秩序を乱す者が現れ、安寧や惰性を貪る者を滅ぼす。カルタゴの“我が師”が莫大な代償と引き換えに教えてくれた最大の教訓だ」
マルキウス「貴方は習熟せし者を滅ぼすであろうと……随分な自信ですな」
ス「無根拠な自信は無知と蛮勇に過ぎない、何であれ裏付けが要る、その為の情報収集だ。それに手はまだ二つ三つとある。
最後に、全将兵にこう伝えろ。絶対に忘れるな。マルスに愛されし私は必ずや諸君の期待と信頼に応えるだろう、諸君が常に私の期待に応えてくれるように」
――――

第二次ポエニ戦争の最中、前207年にイタリアに達したカルタゴの将ハスドル・バルカ(ハンニバルの弟)は、手痛い敗北と熾烈な戦いを経て練度を研ぎ澄ませたローマ軍にメタウロスにて敗北、敵の懐へ迫っていたハンニバルは弟の首を届けられたことで、ローマ軍が手強い相手へと成長していることを悟りました。

一方、ハンニバルの“技”に学びつつあったスキピオはヒスパニアでハスドルバル・ギスコと対峙していました。スキピオはギスコを大規模会戦に引きずり出すことを企図するもギスコは慎重に戦力の集中を図り、スキピオの意図はなかなか成功しませんでした。前206年、ギスコはマゴ・バルカと合流し5-7万の歩兵とヌミディア騎兵や戦象を含む4‐5千の騎兵を集結させました。対するスキピオは歩兵4万強と騎兵3千、数において不利である上に、その半分が練度と信用に難のあるヒスパニアの同盟軍(カルタゴ側に着いたヒスパニア軍もいる)でした。

イリパ(セビリア郊外)に達し、ギスコを捕捉したスキピオは数的不利と質に不安のある戦力の運用に頭を悩ませることになります。両軍は互いに二つの高地に陣営を築き、主戦力を投じる戦機を慎重に探り、騎兵や小部隊を繰り出して前哨戦を繰り広げました。それから数日間に渡り、ローマとカルタゴの軍勢はお互いの陣営の中央にある平地へ軍を進め、各軍中央にそれぞれの精鋭(カルタゴはカルタゴの市民とリビアの槍兵、ローマはローマ軍とイタリアの同盟軍)、左右に練度と旗色の怪しい現地ヒスパニアの同盟軍を配置し、陣を織り敷きました。しかしながら、いずれの日も本格的会戦には至らず、お互いの布陣や士気を確認し、何時間も睨み合い、日没と共に両軍は野営地へと引き上げるという行程を繰り返しました。

毎日昼過ぎにカルタゴ軍が前進し、スキピオはそれに応えるように平野へ同様の横隊を形成する、日暮れに撤収する両軍、何とももどかしい無意味な行動のようですが、互いに編制や士気の程度、戦意を探る意図もあったのでしょう。また大規模な野戦は一度に全てを失う可能性を常に孕んでおり、将軍たちは慎重にならざるを得ませんでした。無線機もGPSも存在しない前近代の戦争において軍隊が展開、布陣することは非常に手間で、当時の軍隊はしばしば野営地から最初に出る部隊が布陣の最右翼を占め、続く部隊が中央、そして最後尾が最左翼へ位置を占めるという硬直的な配置を採用しました。これは各部隊が慣れ親しんだ位置につく方が迅速で容易であるという利点があったものの、配置の変更に難儀するという弱点を抱えていました。

大規模な戦闘に至らぬ数日間を経た後、スキピオは決戦を決意し、全部隊の起床を早め、食事を取らせ、騎兵と軽歩兵によるカルタゴの前哨地点攻撃を命じます。主力に先んじた攻撃によりスキピオは戦闘の主導権を掴み、慎重な判断や選択の時間を巧妙に奪いました。カルタゴ軍はローマの攻撃に応じて十分に食事もとらず、これまで通りの順に出撃し、従来の布陣を展開させました。

彼我が距離を詰めるまで互いの布陣や編制ははっきりとせず、やがて砂煙が吹き去り、ギスコは接近するローマ軍の様相がこれまでとは違うことに気づきました。ローマ軍はそれまで左右に配していたヒスパニアの同盟軍を中央に、中央にいたローマ軍を左右両翼へ配置していたのです。カルタゴにとって主力の中央とローマの弱点である中央のヒスパニア同盟軍が相対することは僥倖でしたが、両翼から強力なローマの主力に攻められることは頭の痛い問題でした。しかしながら、両軍の距離は既に半ローママイルを切っており、敵前で布陣を変更することはあまりにも危険と判断し、カルタゴ軍に対応する術は残されていませんでした。

ここから先は縦隊による迅速な移動と時間調整、心理的・物理的拘束による致命的な遊兵の設定、練度の差などが功を奏して戦況が推移しますが、文字数が無いので2ページ目の戦況図をご参照ください。

スキピオはハンニバルとの決戦、ザマの戦いがあまりにも有名ですが、彼の周到さや機会を鋭く見出す先見性はイリパの戦いにおいて如実に示されています。また将軍個人の才能もさることながら、その意図を正確に理解し、怖気づくことなく冷静に展開することが出来る将兵の戦意と練度、忠実さにも驚くべきものがあります。イリパはローマの有する人材の能力とその組織や末端構成員の水準について示唆してくれる例なのではないかと思われます。

アルス:わざ、技術、自然のみわざとその在り様に対置される人間の術

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2023-08-16 13:45:38 +0000