逆川を天然の濠として堀としていた、慶長出羽合戦で長崎楯を落とした上杉軍に攻められるも落城せず持ちこたえる、ここを突破されると山形城が目と鼻先にの位置になるので、守る側はきつくなるが山形城三の丸の側に戦国期は馬見ヶ崎川が流れてたので、そこが最終防衛ラインになってた可能性もある。
須川と馬見ヶ崎川と逆川と貴船川の複数の川を越えないと攻め込めないので、守る側からすると守りやすかった地形だったみたいな、現在の馬見ヶ崎川を向かいの北側に渋江楯と中野城の斜め西側に今塚楯と言う二つの山形城の支城があった感じ。
最上義光の父親の最上義守の兄の中野義政が城主になり、義政が亡くなると子の中野満兼(最上義光の従兄弟)が跡を継いだようです。
2023-07-16 11:24:01 +0000