シュガにとって、この冬は忘れがたい冬になった。聖導師から秘倉の鍵を渡され、日常のすべての仕事と修行を中断して、秘倉の中に二百年ものあいだねむっていた大聖導師ナナイの手記を読み解く作業に没頭したのである。
〔中略〕
秘倉で見いだした大聖導師ナナイの手記を、苦労しながら読むうちに、シュガはしだいに、その手記にのめりこみ、夕食さえ忘れてしまうほどになった。〔中略〕それほど、ナナイの手記はおもしろかったのである。
日の光のまったくささない地下の秘倉は、数本の風穴しかあいていない、せまい穴倉だった。シュガはそこに太いろうそくを十本ももちこみ、鏡をうまく使って、部屋をかなり明るくすることに成功した。できれば火鉢ももちこみたかったが、閉じた穴倉で炭を使うと、炭が燃えるときにでる毒で死ぬといわれている。秘倉は、しんしんと冷えこんだが、綿入れを着て、ろうそくの火のわずかなぬくもりにたよるしかなかった。
大聖導師ナナイの手記は、うすい石板にびっしりと刻まれていた。ナナイ自身は、きっと布か皮に墨で書いたのだろう。それを後世のだれかが、長い時間をかけて、文字が消えることのない石板に刻んでいったのだ。それは気が遠くなるような作業だったにちがいない。――ナナイの手記は、石板数百枚にもおよんでいたのである。
手記はナナイの思い出からはじまっていた。星を読むことで未来におこることを知る術を教えられた少年時代。〈天道〉を学ぶ日々……。手記の記述は、おそろしく詳細だった。読みすすむうちに、シュガは、ふと、ナナイがなぜ、これほどまでにくわしい手記を残したのか、そのわけに気がついた。――時はかならず事実をねじまげる。飾るために、あるいは神話にするために。ナナイは、生きているうちから、自分がやがて、この国の創世神話の主人公となることを知っていた。だから、国の礎を守るために使われる、ゆがんだ神話となってしまうもののほかに、自分がほんとうに体験してきた事実をひそかに後世に残そうとしたのだ。
やがて、シュガは、なぜこの手記が、ここまで秘密にされねばならなかったのかも、悟ることになった。手記にでてくる帝の先祖――聖祖トルガル帝は、じつに臆病で、自分の考えをもたぬ、弱い男だったのである。
彼は、王権争いの愚かさに嫌気がさして、身をひいたのではなかった。ただ、いつ殺されるかもしれぬというおそろしさから、逃げだしただけだったのだ。だが、ナナイは、このトルガルの弱さ――従順さに目をつけた。つまり、あやつりやすい、王の衣をまとった人形として、トルガルを選んだのである。
ナナイが、このナヨロ半島に移住したわけは、かつて海を渡り、この半島を探検してまわった星読博士から、この半島がじつに豊かで温暖で――しかも、敵の攻撃から守るにたやすい土地だと聞いたからだった。もうひとつ、ナナイは、その星読博士が伝えたヤクーの宇宙観に、とても心をひかれたらしい。目に見える世〈さぐ〉と見えない世〈なゆぐ〉が、たがいにささえあいながら、生きいきと世界をかたちづくっている、ヤクーの宇宙観にである。
だから、ナナイは、この地に渡ったとき、ヤクーたちがみな山に逃げこんでしまったことを残念がっていた。しかし、彼は無能な帝をひっぱって国づくりをしなくてはならない。とても、のんびりとヤクーたちをさがしにいくわけにはいかなかった。手記の中には、あちらこちらに、ナナイの愚痴が書いてあった。たまには自分の頭を使え、と、トルガル帝をののしっている部分もある。シュガは、ひとつの国をつくるという壮大な仕事に熱中しながらも、つい愚痴をこぼさずにはいられないナナイの人柄に、親しみをおぼえた。
手記は〈古代ヨゴ文字〉で書かれているので、読むのに、とても手間がかかった。ナナイらが都づくりをはじめたあたりまで読み解くまでに、年が明け、冬はほとんど過ぎてしまっていた。
シュガは知らなかったが、今年はいつもの年より雪がずっと少なく、星読博士たちは、予想していたとおり、この地にしだいに〈乾ノ相〉があらわれはじめていることを確認していた。
(出典: 上橋菜穂子 (2006年) 「2 秘倉にねむっていた手記」, 「第三章 孵化」, 『精霊の守り人』, 偕成社, 202-206ページ.)
《秘倉のシュガ》
Shuga in the Secret Underground Library
2023-05-27 07:56:16 +0000