「ガレはしばしば、マティエールを自然界から拾い上げたイメージにたとえて説明している。たとえばクジャクの青、トンボの透明な羽根、瑪瑙(めのう)や琥珀(こはく)などの鉱物。細かい雨のしずく、立ち上る水煙、初霜の到来を知らせる幾筋かの霧など。自然から感得した無数のインスピレーションが、さまざまな色調のガラス素地となった。二月の雨に打たれて悲しげなしずくを落とすハシバミの枝や、花の上であたりをうかがうカマキリ……しかし、これらがガレが表現しようとした世界のすべてではない。
彼は誰もが臆せずにはいられない夜の森の闇の神秘や、黄昏時の暗がりのそこはかとない悲しみさえも表そうとした。彼がガラスに託した世界とは、手で触れることができる実体を持つものとは限らなかった。いや、むしろ形のない気配、柔らかい照り返しのなかに浮かぶおぼろげな影、水面下のうごめき、たなびく霧、夜空の星明りといった詩的な言葉で形容されるある種の雰囲気、余韻こそが作品の魅力の源泉となっている。
1880年代後半から象徴主義に傾倒したガレは、それ以前の異質な要素の取り合わせを楽しむ折衷手法から深化を遂げた、アナロジー(類推・類似)の美学といえる、より複雑な手法を導入した。ガレは「(意図せずに)偶然にできてしまった作品が、さまざまな色調の素材が入り混じって意表をつくような効果をもたらし、知的遊戯の対象となるのを楽しむことがある」と語っている。不定形な対象に特定の意味を認識してしまう幻視の一種をパレイドリアと呼ぶが、病床で時間をもて余す人の眼に天井のしみが奇妙な顔に見えたり、夕焼け空の雲が子供には巨大な羊の群れに見えたりするように、見る人のイマジネーションを刺激して、いろいろな解釈が可能となる曖昧(あいまい)な表現を彼は好んだ。象徴主義を代表する画家のルドンは、野原で仰向けに寝て流れる雲を眺め、刻々と変わっていく幻のような雲の輝きを追うのが無上の喜びだったと語っている。無限に増殖し変転してゆくイメージを喚起する雲の魅力。ガレの場合は、それをガラスという単語に置き換えればよいのだ。
含蓄に富む重厚なガラス素地の開発にあたり、ガレは中国の玉器や日本の古銅器の風合いをガラスに転写する作業も厭わなかった。半貴石に似た斑紋や縞目はそれ自体が鑑賞対象になるとはいえ、われわれの意識は素材としての自己価値の認識に留まりやすい。しかし、抽象的な縞模様が装飾の構成要素に組み込まれた場合は具体的なイメージと結合しやすく、装飾が伝える表象を読み解く方向へと意識を向けさせる。図鑑の標本的イラストのような草花や昆虫の形式美に命が吹き込まれ、生育環境や時空の移ろいを予測させるドラマが出現してくるのである。
抽象と具象の併用による多義的表現は家具の分野でも実践された。ある時、銘木店を訪れたガレは陽に赤く染まる紫檀や芳香を放つバラ色やスミレ色の削り屑に目を見張る体験をした。インドやアメリカの発見者になったような衝撃を受けたガレは家具製造に乗り出し、マホガニーやローズウッドなどを使った象嵌細工で天板や鏡板を埋め尽くしてゆく。偶発的な抽象形に過ぎない木目が絵画的構図の中で活用され、水の流れや森の茂み、沸き立つ雲を連想させる暗示力を存分に発揮している。
このようなアナロジーとメタモルフォーシス(変容・変身)を特徴とする造形手法は、ガレの故郷ナンシーの偉大な画家グランヴィルから強い影響を受けている。「カリカチュア(戯画)の王様」と讃(たた)えられた画家のイラストは、連想の鎖によってひとつのモティーフが次々に変身を遂げ、ついにはまったく別物にすりかわってしまう奇想が特徴である。論理的思考を軽く笑い飛ばす、想像力の豪快な飛躍がもたらす白日夢のような幻覚。まさにそれこそが、ガレの芸術の真底にある世界なのだ。グランヴィルからガレが受けた影響は、個別のモティーフの引用といった皮相なレベルにあったわけではない。
〔中略〕
「私はすすんで夢を見よう。工芸美術品が喜びと歌声にあふれた工場からのみ生み出されるよう改善に取り組みたい」と語ったガレのガラスは、生産効率よりも人間の手仕事に全幅の信頼を置く思想が生み出したものであった。手間を惜しみなくかけたガレの作品に現代人が魅了される所以である。」
(出典: 鈴木潔 (2007年) 「ガレ芸術の真底にある世界とは」, 『もっと知りたいエミール・ガレ : 生涯と作品』, 東京美術, 74~75ページ.)
2023-03-26 05:23:59 +0000